一番はトムラウシ山岳遭難事故を皆が知っていたとしても、
それをネタにして煽ろうとするゲス野郎は誰も居なかったことです。
パーティーは私を除き女性陣と男性ガイドと男性ポーターの
大所帯のクラッシックツアースタイル。
ヤマレコの記録を見ると、避難小屋に先発隊が入ってマットを敷いて場所を確保している事を
よく思わない方々もいらっしゃったみたいですが、
如何せん女性陣メインの大所帯ツアーですので
ご一緒された登山者の方々には、肩身の狭い思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。
しかしながらコロナで人数制限が設けられており、リザーブは出来ないと云っても
避難小屋は事前申告して、更に先に入った方が場所も優先ですので、
金の力で人海戦術して解決し、体力で先にたどり着き寝床を確保することこそが
先を見据えた大人の対応であり、
ある意味でのツアールールでもあるかもしれないのです。
誰よりも早くにツアーグループは避難小屋にたどり着き、
頭数の身体をもって場所を確保したのですから、遅くに辿り着いて
寝る所がないからと文句を云われる筋合いは本来は無いはずです。
今回の記事の文句は・・・単なるひがみ根性と捉えたいと思います。
早立ち、早着きが山小屋の鉄則です。
通常の低山であれば、18時に道端にツエルトを張る事も考えられるでしょう。
しかし、北海道では許されません。
ヒグマが夜も徘徊しているからです。
必ず宿泊指定地で幕営することが、自分の命を守ることの他に
これから来る登山者のニアミスを減らし命を守ることにも繋がります。
故に北海道では
15時を過ぎて山小屋にたどり着くなどは・・・以ての外と考えていただき
考えを改めていただきたいと思います。
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私は一人の登山の時は平均時速2Kmで歩くのですが、今回の平均速度は
やはり高齢の方や基礎体力の不足している方を基準としているから随分と遅く感じられ
歩行においては終始ストレスでしたが、
これはトレランや百名山のピークハントの類ではないのだと心で抑圧させていました。
登山後にガイドに聞いて見ると、出だしはとにかくゆっくり歩くこと
が長く歩けるコツとの説明でした。
また、パーティーの編成では遅い人を先頭として順番となるから自然と私は
自惚れた自信の現れもあって、シンガリを務めると決めたのです。
これには2つ理由があって、一つには一眼カメラで自分のペースで写真を撮りたかった
からでもあるし、もう一つには、すかしっぺが失敗して(´・ε・`)プーブッブッという音を
女性陣に聞かれてしまっては恥ずかしく・・・www
少し離れてガスを漏らしても誰にも気が付かれないだろうという邪道な心持ちからです
旅の初めは地上天気図では雨予報で、「天気と暮らす」では行く先は
B A B と中一日だけが期待できて
あとはパッとしない天気で、地上天気図よりかは期待できましたが、
青空は完全に期待できないことを覚悟をしていたのですが、
もしかしてこれ以上悪い天気になるかもしれないと・・・悲観もしていたのです。
結果的にはこの予報は当たっていて悲観することがなく杞憂で良かったでした。
ロープウェイの姿見駅では小雨から霧となり、時折の霧混じりの雨もポツポツと感じました。
メッシュ地のマムートTシャツにその上にロングの山シャツを着て登り始めましたが、
30分でTシャツ一枚での登山となりました。
山を始めた頃なら、汗をだくだくとかいてから、一枚を脱いだのですが、
今は皮膚が冷たい状態での気温5℃無風状態の環境くらいの登山ならば
Tシャツ一枚で全く問題なくなりました。
3月に高尾山にTシャツで登山していたら、
トレラン以外の周りの登山者全員が薄手のダウンを着ていて、私を見てびっくりされましたが
ひとえに冬季訓練の賜かと思われます。www
(もしくは更年期症状かもwww)
さて、そんなことで人よりも体感気温の感じ方の違いをココでも感じなから・・・
山頂を目指します
旭岳の水蒸気の噴気は霧が晴れた瞬間の数度見られましたが、
ほぼ地面にある登山道と周りの登山者を見ながらの登りとなりました。
途中、東京から来たのだという3人組の70代老人パーティーに声をかけられ
何人のパーティーで、何歳くらい?どこまで行くのか?
トムラウシ事故のことは知っているのか?
テントは持ってきたか?
どういう計画か?
私はおそらく〇〇○・・・だと思いますと
客であるという立場もあって・・・濁らせて答えたのです。
するとそんな事も把握せずにココに登りに来たのか?
我々は散々情報を集めて勉強してきたのだ、何故そんな事も知らないのか?
などと、まるでこちらのパーティーの個人情報を知らぬが悪いかのように
言ってきやがったのです。
めちゃくちゃ腹が立ったので、
「詳しくは私ではなく、ガイドに聞いてください」といって、
あとは3日間、終始無視を決め込みました。
山は楽しく登るもの、協力して登るものであって、
決して人を非難したり貶したり、蔑むようなことは言ってはならない
と私は思っているので、このような老害は地上でも相手にされないだろうから
この山に来てストレスを発散しマウントをとる他はないのだろう
などと自分に言い聞かせて歩を進めたのです。
周りの登山者にも山小屋で聞いてみると、同じように一回会話したけれども
めんどくさそうだから離れましたwwwって同じことを言っていました。
腐ってしまった人間は、もうどうしようもないですね。
自宅に帰ってきてから思ったことですが、北海道の山は、
やはり黙って登ることが好ましいのかもしれません。
何故なら、エゾリス、キタキツネ、ナキウサギ、ギンザンマシコ、ヒグマなど
人間が会話でもしていたら出会えないであろう奇跡に出会うためには
終始無口に周りを注意深く見渡して耳を澄まし、足元にひっそりと咲く
本州で出会うよりも小さな高山植物も見落とさないように歩くことが
奇跡の出会いのチャンスを増やす事を気づいたのです。
その週に咲く250種類もの高山植物の他に、貴重な動物達の会話。
分かっているだけでも5千年の歴史を持つ大雪山でのヒグマの暮らしや
数万年前より居付いているナキウサギなどは言語文化を持つことがわかりました。
数千匹のナキウサギには鳴き方が違っていて、
(」・∀・)」オーイそっちの天気はどうだ!?
いい感じだよ
ヤベ━━━━━ヽ(゚Д゚)ノ━━━━━!!!!危ない奴らが来たから逃げろ
などと叫んでいるのです。
マーモットが立って周りを見渡すのと違って、
グループで鳴き声で連絡の伝達をしているように聞こえました。
犬や猫は生まれて数ヶ月でペットショップに売りに出されて、人間のもとで暮らします。
つまり声は持っていても、集団での文化や共通言語を持たない訳です。
人間の生活に同化するように合わせて生きて行くのです。
しかし、ナキウサギやヒグマには、子供たちに伝える文化があります。
この食べ物は食べてもよし、これは駄目。
ナキウサギは食料を岩に乾燥させて冬に備えるために、
干していたり、また専用の食料庫も存在します。
生き物は医学的に生存させられても、言語・文化は復活できません。
自然を守るということは、数千年~数万年という単位での時間が育んだ文化を守る
ということでもあると、北海道で知ったのでした。
短いですが、2022年7月22日のナキウサギの映像です
先程の嫌な老害の話に戻りますが、
今の登山は多様化、そして進化していると思うのです。
衣類や食品だけでなく
ウルトラライト装備のサバイバル登山や、軽装で一日40Km以上も走るトレランスタイル、
そして変わらぬ10Km~20Kmまでのクラッシックスタイルなど
昔の山岳ルールに凝り固まった知識をひけらかし、俺たちが絶対だ
と云わんばかりの言い方を聞いていると、まるで加藤文太郎の文庫「単独行」を思い出します。
加藤文太郎は、昔風の山岳スタイルに馴染めずに、いつも仲間外れにされています。
何故なら、体力があり過ぎたのです。
次の目的地の小屋までご一緒しても良いですか?と云えば
パーティーが違うからだめだと断られたり、
雪についた先行者の足跡を使うなどして楽をするのは、岳人としての恥だから、
先行者が山小屋を出ていってから1時間して吹雪で足跡が消えた頃に着いてきても良いとか?
グループに馴染もうと努力しますが、徒労に終わります。
冬山で寝るなどは死ぬも同然だから、絶対に寝てなどはいけないという鉄板ルールを破って
700gの甘納豆を食べて寝たら死ななかったから、食料をしっかり食べて保温に努めて眠れば
雪山でも体力遭難せずに生きられることを証明してみせたのも加藤文太郎でした。
ある意味で、現在のウルトラライト・サバイバル登山やトレランにも通じる行動力。
常識に縛られない奇抜な思考が、常識スタイルの登山者に嫌がられたのかもしれません。
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旭岳山頂では標識だけの記録写真を撮影し、北海岳を目指します。
裏旭はちょうど熊の通り道みたいでした。それを横切って霧の中、
視界500mといった所を歩いて行きます。
カメラでは表現できないほどの大きさの御鉢平を横目に何度か見て
時折見える北鎮岳を見ると、このお鉢の周囲は一体何キロほどあって
黒岳から登ってきて、一日で一周を回って歩くのも楽しいかも?
などと想像を膨らませてみたりもしてwww。
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なにやら黄色いペンキで石にマーキングがたくさんされているのが目につきます。
それ程、ココが道ですよと主張するように誘導されて歩きますが
北海岳分岐部に立った時、その意味がわかったのです。
周りが何もない大地で、霧の中ということもあって、標識の所に立っていると
どっちから来たのかわからくなるほどなのです。
この3日間の山行の中で、最も助かった誘導ペンキであったかもしれません。
そういう訳なので、展望の望めない白雲岳には登らずに小屋へと向かいました。
小屋周辺は視界がよく、二頭のエゾシカが見えました。
宿泊は小屋の二階になりました。
トイレはありがたいことに、うんちは持ち帰らなくても良いけれども、
使用した紙は持ち帰るスタイル。
しかしながら、ここには1000円払えば小屋で引き取ってくれるサービスもあります。
小屋番をしている女性が一通りの受付作業を終えて、息抜きに外へ出てきて空を見上げ。
霧の中に薄っすらと幻光があるのですが、それを温かいと言うのです。
はぁ!?
霧の薄くなった所に僅かに太陽らしさを感じるのですが、
人によってはそれすらも温かいと表現するのです。
パーティーの若い一人にも同じように表現する人が居ました。
私が鈍感すぎるのか?もしくはそのサングラスをかけていると、
人には見えない太陽が見えるんじゃないですか?
などと揶揄してみましたが、同じこと言う人が居たことで、私が鈍感だったのだと知り
あの時の言動が失礼だったことが、急に恥ずかしく思えてきたのです。
読んでいたらごめんなさいペコリ
小屋では、いびきの他に、ガタン、ドタン、ギー、ガチャン、
終いにはピッピッピッとアイフォンのアラームがあちらこちらから聞こえてくる始末です。
どうなっているんだ。みんなの常識は
結局、それらの音が気になって、一睡も出来ずに朝を迎えることとなりました。
朝食は3:30、4:30には高根ヶ原へと歩き出します。
天気には恵まれて、視界が良いです。
神がかった天気に俺はツイていると思いました。
どれもこれもが、来てみないと分からない事ばかりで
ユーチューブで、様々に何度も見てきましたが、イメージと全く違っていました。
ある意味では、それ以上だったかもしれません。
高根ヶ原という楽園をあっという間に歩き終え、ここは本当に標高2000mにあるのだろうか?
と思えるほどの大地ですが、切れ落ちた遥か下に見える湖沼群を見ると、
大地がごっそりと削り落とされていることがよく分かります。
忠別岳への直線の道をハイマツを搔き分けながらひたすら登っていくと
忠別岳にたどり着きます。
注意されるだろうことは知っていて、崖側に近寄って写真を撮ると
「それ以上行かないでください」と注意されました。
まだ、崖までは2~3mほどマージンがあると思ったのですが、
今思えば、足元の砂はグッと沈み、
そのまま、あと2歩行けば、ズルっと滑り落ちてもおかしくはなかったかもしれません。
忠別岳の崖の写真を撮る際には気をつけた方が良いかもしれません。
周囲は霧で高度感が全く分かりません。
今回もまた忠別岳標識の背景は白一色です。
しかし目を反対にやれば、忠別岳の花畑は一面に広がっていました。
世界で1位・2位を争うほどの面積で大規模な高山植物の群生地だそうです。
その後化雲岳へと長い道のりを進むのですが、
忠別岳のお花畑の印象がどこまでも強く残っており
道すがらはあまり覚えていないのが実際でした。
三角点のみの五色岳をあとにして、旧化雲岳のシンボルを横目に、新化雲岳を望みますが
またもや霧に包まれ、それが故にピークは登らず巻き道でヒサゴ沼へと下ったのです。
ヒサゴ沼には雪渓の水が流れ入っているにも関わらず、水は冷たくはありませんでした。
サンショウウオが住んでいるのです。驚きです。
何故冷たくないのだろうか?などと考えてみても、初見の私には答えは解るはずもありません。
高山が故の紫外線の強さなのか?
風によって水がかき混ぜられているが故の暖かさなのか?
はたまた地熱でもあるのか?などを思考をめぐさせてみても
不思議と冷たくはない理由ではない気がします。
このヒサゴ沼避難小屋でも、ありがたいことに
うんちは置いていけますが、拭いた紙は持ち帰りです。
今回は1000円の引取サービスは無しです。
この日は、前夜の件もあって18時には横になって、
周りではまだ18時だからねぇ~などと聞こえ、20時になったら寝るか?
などと話し声が聞こえますが
私は、静かになる瞬間があったら、いつでも寝れるように待機しているうちに
2時の起床まで一眠りに寝た様子でした。
3:00朝食、4:00出発、風があるので前日よりも寒く感じます。
始めのうちはハードシェルとネックウォーマーとウールの手袋を着て雪渓を過ぎます。
昨日までの道とは違って、明らかに岩の大きさが大きいのです。
どこで一線を超えたのか?わかりませんが、
おそらくヒサゴ沼辺りが火山噴火の年代境界線だったかもしれません。
岩の間に土がありますが、目の前には大きい岩だらけの壁が見えます。
もはや登山道とわかるような踏み跡はなく、ペンキの印だけが登山道なのだと示しています。
私のイメージではロックガーデンはもう少し規模の大きいものを想像していたのですが、
以外にもぴょんぴょんと岩のピークを結んで繋いで跳ねて歩いているうちに、
珍しいと云われる6角形の柱状節理群のような岩帯を過ぎ、
程なくして日本庭園へと着いてしまいました。
日本庭園は30万年前より太古の姿を崩さず残しており、
縄文人も見ていたであろう原始の風景を私達も見ている
と言っても過言ではないかもしれません。
ツアー客の中には、ココを目的地としている人も居り、
高山植物と、岩と池、そして縄文遺跡も近くで見つかっており、
ココら辺で暮らしていたのだから
この日本庭園は縄文人も知っていたに違いないのですし、また水場だった可能性もあります。
大雪山は3万年前に爆発して出来たお鉢平を火口とした火山帯の山々が連なり
比較的新しい山群です。
尾瀬至仏山の蛇紋岩も2万年前に形成されたことは有名ですが、
トムラウシ山の形成は、それよりも遥かに10倍古く、
30万年前の噴火によって出来た山なのです。
ナキウサギがなぜかトムラウシに多いのかは、
30万年続く安定した環境と、ナキウサギの歴史や文化があるからなのでしょう。
ヒグマは、実は本州に34万年前と14万年前にユーラシア大陸から
渡ってきたことが分かっていて、本州のヒグマの化石は3万2,500年前のものと
1万9,300万年前のものが残っているそうです。
現在の北海道のヒグマは3度サハリンから渡ってきた種類だと考えられ、
縄文人が住んでいた1万3,000年~9000年前には、
共に大雪山に暮らしていたことが分かっています。
また蝦夷ナナカマドなどの植生の多くや、大雪山系に存在する植物などは、
ヒグマに食われて、糞として種子を運ばれることが前提で育っていることが分かっており
ヒグマが居なければ、自然生態系も成り立たないことが知られています。
大小の岩が続く道を這うように進み、ふと目を上げれば大きな北沼が見えます。
北沼からトムラウシを望めば、
あともう少しといったところで600mと書いてあります。
地上での600mはすぐ眼の前ですが、
大きな岩をへつらいながら岩を乗り越えていく600mは
果てしない距離感だろうと一瞬途方に暮れて、クソッ!まだまだか!
などと眼の前の岩を睨みつけました。
遠くからトムラウシ山頂であることがわかる標識が見えてからも、
1個、数メートルの大きな岩を乗り越えていかなければならないから
バランスを保つ足の気力が抜けません。
落ちれば即骨折レベルの岩アトラクションが続きます。
噴火から30万年も経たのだから、少し位植物が蔓延って、枯れて土と化し
深い穴を埋めても良いものだろうなどと人間の勝手な都合を押し付けてしまいますが
逆に30万年もの間、この状態が変わらないということは、
気象条件が厳しく草も生えられないことを意味します。
その過酷な現場の頂上へと今、ザックを下ろし仁王立ちになって立っているのです。
北海道の山の中でも1番はじめに霧に包まれるトムラウシ山は、
我々のことなどは微塵も遠慮せず、晴れ間を見せることなく今日も霧の中です。
大体こういうのは、下山して見上げた時に晴れたりするものだろうなどと、
ケチをつけて下山を開始します。

過ぎると前トム平を眼前に望みながら、
ロックガーデンでは四方からナキウサギの声がします。
それも相当な数のナキウサギの声です。
姿は確認できませんでしたが、おそらく待っていれば顔は見れることでしょう。
私は散々ナキウサギを山行中に見てきたので、敢えて写真で撮ろうとはせずに
じっと聞き耳を立ててナキウサギ文化の会話を聞きながら行動食を食べるのでした。
前トム平を過ぎた瞬間に空気が変わり、植生が変わったことを肌で感じ
また見た目にも、目に鮮やかな緑色とダケカンバの白い樹皮が目に映ります。
前トム平からコマドリ沢を望む
今まで岩のモノクロ色がメインだったので、緑色には安堵感すら感じてしまいます。
と同時に、もはや高山帯の希少で貴重な植物や動物たちとは逢えないのだと思えば
後ろ髪惹かれる思いもあり、また名残惜しくもあり、下山する足取りは重いのです。
ヒグマは緑の世界にも生息しています。
僅かに残る雪渓にもヒグマの影が移動しているのが分かりました。
きっと緑の森の中には、相当数歩いているのでしょう。
それを縫うように人間が登山道を歩いて行かなければならないのですが、
数万年の歴史の上で、ヒグマは人が登山道を歩くことを知っているし、
私のツキノワグマ・ニアミス記憶でも500m手前から
人間の雰囲気は察知することも出来ているのです。
故に余程のことがなければ、目の前でヒグマに出くわすことはないでしょう。
などとタカを括ってはいけませんが、
本州でのツキノワグマと同等に、北海道のヒグマも登山では熊スプレーを携行し
鈴などは鳴らさずに歩いた方が良いのかもしれないと感じたのでした。
前トム平からコマドリ沢まで下ってまた登り返しからのカムイ天上までの工程は
非常に長いです。
カムイ天上から短縮登山路分岐までもダラダラと遠いです。
アップダウンが無いだけマシですが、この部分は正に登竜門と呼ぶべきでしょう。
短縮分岐からは600mで駐車場です。
あっけなく旅の終わりを迎えたのでした。
下山したばかりだというのに、もう一度チャレンジしたいと思わせてくれるのは
やはりいい山だったからに違いありません。
何と言っても高山植物の種類も数も多いし、なにより雄大です。
北アルプスの表銀座縦走路が短く感じるほどの、不思議な距離感がありました。
深田久弥はこれを言いたかったのかと自分の足で歩いてみて、
苦しさを噛みしめてみて歩き、ようやく真意が伝わりました。
山の広さとはこういうものだったかと。
そしてあっけなく感じたのは、それまでの工程があまりに長かったからの
錯覚に過ぎませんが、甘いものや旨いものはいくらでも腹に入るように、
いい山はいつまでも懐に抱かれていたいと思うのは、ヒグマだけでなく
人間である私もまた同様の美的感覚を共有しているのだと感じたのでした。
3万年前に大噴火した広大な面積の大雪山系の広さと、
30万年前に形成された岩の殿堂トムラウシ山、
そして、2000mを堺にハッキリと植生が変わることが目に見えるのは
コントラストの強い山であることがよく分かります。
人は北アルプスのように非日常の山の傾斜や岩石の剥き出しを見て
その立体感から、山塊の大きさに圧倒され魅了されますが、
大雪山の場合は真逆の山岳地形の立体感ではなく、
どこまでも奥行きがあり、ここは平地なのでは?
と錯覚するほどに広がる天空の山岳大地であるという懐の深さに、
東北の山深さとは、また違った意味で魅了されました。
最後は新千歳空港から仙台へ戻るときのフライトレコーダーです
現在あとがきを書きながら、現実を感じています。
あれは苦しみも含めて夢の時間だったのだと、
現実の仕事の苦しさは山をただ歩くような前に進めば良いだけの力の配分だけでは上手く行かず
あっちに気を使い、こっちにも気を使い、そして自分の仕事そのものにも気を使い
あらゆるものから束縛されながら、労力を分散して日々を送るこの現実は、
やはり大変です。
一般人には、山を登る方が余程大変だろうと想像されますが
私にとっては山歩きで汗を流して一日を終えるほうがどれだけ楽であり
現実逃避というあらゆる束縛からの開放と癒やしがあるのかを思えば、
またすぐにでも自由な気持ちでいられる山に戻りたくなってしまいます。
しかし、やはり現金を稼ぐという現実からは逃れられません。
現実こそがまた、人生における山登りなのかもしれないと
生ゴーヤのような現実を口に入れ咀嚼嚥下し思う今日この頃です。
本日もご覧いただきましてありがとうございました。