スタジオ入りして、突如としてなまりがひどい言葉の中から唯一聞き取れる部分の始めが
「悲しみを裏に持っていて、驚く事と喜ぶ事と・・・
多くを教えてくれているという事でしょうね・・・・
芸術というのは、悲しんで泣くのではなく、
悲しむ気持ちを涙を流さずに表すことが芸術であり・・・・
そのことを通して芸術とは、
悲しみという感情を一番最後に持ってくるものということでしょうね」
というくだりから始まる話に、棟方志功ワールドへと一気に惹き込まれていきます。
一見、飲んだくれの呂律の回らないタダのオヤジにしか見えませんでしたが、話すと実に深い、
そして実に真理を見つめながら生きていて、芸術表現をされている方だと感服いたしました。
我が父が昔・・・棟方志功・・棟方志功の版画をみたい・・・と口にしていたのを思い出します。
棟方志功は、大変思い込みが深い人だったらしく、
自分が全て、自分が世界の中心と考えていたようで
芸術家というのは、とかくそう云った思い込みの強い人ほど大芸術家になり得ると云われていますが
仏教をかじり、小さい自分から大きな自分へと変わろうとするきっかけを得て、
また更に出会った方々やロマン派の影響も受け
自らも積極的な交流を行い、その方々からの影響を受けて、
雪だるま式に芸術の深み・厚みを増しながら躍進していきます。
生き方も、時代も、人柄も、全てが日本の歴史に残る逸材へと
必然的に押し上げられていったのだろうと思います。
この記事のひとつ前にアップロードした、私の苦手なタイプの人をピックアップしましたが
そういう意味では、棟方志功さんも自分勝手な人で、猪突猛進タイプで、
ある意味での私の苦手とするタイプかもしれませんが、
唯一、素晴らしいと思うのは信念のコアな部分だと思いました。
独自の悲しみの美学概念の中で、
「決して涙を流さずに、その悲しみを芸術で表現する」という部分は
悲観的に物事を考えていて、そのまま悲観的な内容を口にするのとは違って、
相手に押し付けずに、悲しみを感じる相手に寄り添い共感するように表現しています。
ある意味で、私の目指す無害な人、中庸で、相手の心を乱さない人にも通づる部分を
持っていると思いました。
そういう意味で、芸術の中身は私には全く分かりませんが、
棟方志功の発する言葉の端端に、なるほど・・その通りかもしれない
と頷けるだけの感動があることに、偉人たる風格を感じるのです。
青森の人は、どちらかというと悲観的にものを考える人が多いような気がします。
太宰治も「死を人質に生きた男」などと云われ、表の顔と裏の顔の二面性がありました。
吹き出すような笑い方をして喜んで見せたり、また、時には
部屋に青酸カリを隠し持っているから、一緒に部屋を探してくれと頼んでみたり。
何故に、青森の偉人たちは、死や悲しみというのを背負って、また友として、成長していくのでしょうか?
最近では、朝井リョウさんの「死にがいを見つけて生きているの」などの書籍を買ってしまいましたが、
また朝井さんも同様に、太宰治や棟方志功同様に、
死神を味方、友達として成長しているのかもしれません。
芸術って、この3人を見ていると、前提として死とか・・・悲しみとか・・・そういうマイナスなイメージを
根底として喜びや、鮮やかさ、躍動感というものが噴き出すように演出されているのであって
そういう意味では、キリスト教の天国と地獄という地上世界の2原論的発想、対比表現が、
芸術創作への原動力になっているような印象を受けます。
死を眼前に置きモノのように置いて眺めながら、今日一日を精一杯生きようとした気持ちが・・・
噴き出すような笑い方だったり、激しい芸術への意識と眼差しと取り組み方だったり、
また生き方だったのかなぁ~
などとユーチューブを見ながら、何となくそんな風に思ったりもしています。
今日は、何故だか感性が、人間の内面を見つめてしまう視線となった一日でした。
本日もアラカンおやじのつぶやきをご覧いただきましてありがとうございました