きっと私がHSP気質を持っているから、余計に気になるのかもしれません。
逆に、相手から見たらどういう得体のしれない人間かも計り知れず怖がられていることかと思います
近隣のおじいさんと久々に会話をした時の事です。
実はこの人、私にとってはすごい苦手な人なんです。
まず声は小さいから聞き取りにくい。
そして、住む世界の違う会話をしてくる。
いつも自分中心で…だろう。・・・そうだろうという押し付け言葉。
全ては悲観モード前提で話し始めていく。
その方の職歴など過去の歴史を見てみれば立派な方であることは、重々承知しています。
地域の役職も立派に何十年もこなしてきて、地域の重鎮と云っても過言ではない程・・・です。
だがしかし、物事を否定的に、悲観的に、蹴落とすように考えて発言してしまうのです?
だから、忙しいふりをして、すぐに離れるのですが、今日は声が通って聞こえてしまったので、
つい、会話を進めてしまったのです。
この方は、必ずルサンチマンではないにしろ、対比構造で語るのです。
付け入る隙もありませんが、付け入る気持ちもありません。
もう・・・その年になると、何を言っても・・
あーそうか!?そうだったのか?
という発想の転換などはしないだろうし、してくれないだろうと思えるからです。
天国妄想モード、地獄の妄想モードなど、人間は自由自在に切り替えて
自分の気持ちや社会情勢などを見ることが出来ます。
それは、その人の心持ち一つな訳ですが、
そう考えてみた時に、自分を見てみると、何故こうも楽観的思考なのか?
そもそもキリスト幼稚園で「アーメンソーメンつるつる麺」などと云って育ち。
この世は地獄で、いつか天国に帰るのだから、せっかくだから地獄をとことんしゃぶりつくして
味わって行こうという気持ちがあるから、苦境、苦難、苦労というものが
それほど苦手なものではなく、私に与えられた神からのプレゼント・フォー・ユー
なのだと思えば、ツーリングで行く北海道でも「試される大地」というけれども
私にとっては、同類で、また今日も試されたか?と云った程度で
深刻ではないイベントストーリーであり、ライフエッセンスなのかもしれないといつも思うので、
隣の偉人の話を聞いていると、まるで違う世界に住んでいるように聞こえてしまうのです。
逆もまたしかりで、私の事を見ているでしょう。
その方は、農家は大変だと言います。
マニュアル通りに行動して作らないといけないし、天気のせいにして
作物を作れずに収入を減らすことも出来ないから、大変だ。と言うので・・・、
息子さんは役所の職員だから、毎月給料が入ってくるから家計的には安心でいいですねと言うと・・・・。
人間関係が大変で、相応分だろうから、あれも大変だというのです。
私にしてみれば、この人間社会なのだから人間摩擦は当たり前であり、
役所職員というのは、社会経験が少ない者が入庁してくるから精神的に幼い人が多く、
尖がっていて丸みが無いので、そういう棘の部分で摩擦が起こり、堀が深くなるのだろうと
思うのですが、もうちょっと社会経験すれば人間摩擦などは無くなり、
利害のみの関係に成り得るから、付き合いが楽しくなりますよ・・・と
アドバイスをしてあげたい位なのですが・・・
自分だけが正しい、周り全員がバカ者であり、無能な人間と付き合うのは疲れる
と思っていると
いつまで経っても人間関係は良くならないと思うのです。
改めて、隣人と話していて、普通に会話する大切さ、
無害・中立・中庸な人間で居る事の重要性を感じざる負えませんでした。
中立で居なければ、誰も相談事やら、気さくに話しかけてくるという事はしないですから。
いくら偉い人でも、あの人と会話すると訳の分からぬワールドに引き込まれた土俵に立たされて
そういう目線で返答しないと会話が成立しないようでは・・・
自分でもそこら辺を気を付けなくてはと思った次第な朝の出来事でした。
真面目過ぎる人生の職歴と人生観で凝り固まっていて・・・・アンダースタンドが出来ない。
つまり、相手の立場に立ってものを見ることが出来ない人間と会話するから
ワールドの違い感を感じてしまうのかもしれません。
相手と会話する時には、まず相手の立場に仮に立ってみて、そこから世界を見てみるという
同じ土俵に立って、そこからの会話でなければ意味不明となり
面白くない会話(愚痴聞き)になってしまうのかもしれません。
魚釣りに行って、防波堤で釣りをしているタダのおっさんの方が、
まだ社会性があると思いました。
どんな年齢で、どんな立場の人が来ようとも、すんなりと会話でき得る柔軟性は
色んな所で、色んな人と働いてきて、最も良い状態の人間性を獲得してから退職されて
余生を海を眺めながら、今日の飯の糧を得る為という建前で・・・そこに釣り糸を垂らしている。
タダの暇なおっさんと思うなかれです。
そんな人たちと一緒に釣りをして、会話をしてきているので、
隣人の凝り固まった宗教染みた思想観に違和感を感じたのかもしれません。
処世術という言葉があります。
社会生活をしていく上での方策とネットで調べると一番に表示されます。
上司にゴマを擦る人、いつもヘラヘラしている人。
必ず条件を付けてくる人、マウントを掌握したがる人。
自分はダメだと悲観して話す人、逆に俺が一番だと思っている人。
様々に人は、この世を生きていくために、
どれが自分にとって都合が良くて楽な生き方であるのかを模索して、それが自然と身に付いてきて、
日頃の考え方と行動に現れてくる訳です。
どれが正しいとかは言えませんが、
苦手な隣人は、そういう悲観的物言いによって自分を守ってきたのかもしれません。
また同様に、私自身も苦難に真正面から対峙せずに、
半ば他人事的に捉えて自分のナイーブな心を守ろうとしてきたのかもしれません、
刹那の命を生きるのに、あまねく思考錯誤しながらも辿り着く安堵の処世術を身に付け
それでもって満足する人生を否とし、何故に火中に飛び込もうとするのか?
ハイ!訳の分からぬことを言い始めてきましたよ
そんな風に思わせてくれる、今朝の出来事でした。
本日もご覧いただきましてありがとうございました。
後半に続く