確かに、精神を崩壊させてしまう行為は悪いかもしれない。
しかし、自分自身はどうやって保てば良いのだろうか?
全員が聖人君子で穏やかな死を迎えるというのは幻想だろう。
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始めっから重い表現をしてしまいましたが、
戦争で人を殺すというのは、正気では出来ない事であり、いくら命令だとしても
何らかに精神を傾倒しなければ、上等兵の命令など聞けるはずもなく
ましてや、自分が次の瞬間に死ぬかもしれないというのに
正気を保ちながら死ねる人は居るのだろうか?
故にドイツでのヒットラーはメタンフェタミンという薬物を3500万錠も利用し
兵士を死に場所へと率先して誘導していった。
更にはヒットラー自身が薬物依存症になっていった事実も分かり、
なぜあれほど熱狂的であったかも後に判明したのである。
同様に、病院のベットで人生の終末死を迎える時、
痛みや苦痛を伴い、正気を保つという事が出来ないからこそ
モルヒネや睡眠剤によって苦痛から逃れ精神を救済しようとするためには
やはり薬物などの中毒は欠かせないのだろう。
我々は、何かをもって精神を正常に保つことが出来なくなった時、何かに頼らざる負えない。
それが、たばこだったり、酒などのアルコールであったり、異性依存であったり
金を見て安心するギャンブル依存であったり・・・・・・・依存するのだろう。
社会生活を潤滑に送るためには理性が必要だと教えられ、
あらゆる依存症の素になり得る事柄から遠ざかるように教育を受け、
依存し、中毒の如く、それにのめり込むことを悪と考える風潮がある。
が故に今でも、依存症や中毒と聞けば、まるで悪(人・物)とでも云わんばかりの扱いを受ける。
今では酒ですら、一口でも飲めば、「あなたは依存症だ!精神科外来に行ってください」と
ブログのコメントでご指摘を受けたことがあるほど・・・・
今は毎日の飲酒という習慣すら許されなくなってきている。
しかしどうだろう、人が死に直面する時、モルヒネ・睡眠剤などの中毒物質、
それ無しにはこの世は成り立たなくなっているのも事実ではないだろうか。
結局、必要だからなのだ。
問題は、必要量の問題であり、ある一定の限度を超え、日常生活に支障をきたすことが問題であり
毎日の飲酒も、正当化する訳ではないが、まさに依存であり中毒であり、しかしながら
それを販売する小売店があり、酒税収入を期待する財務省という国の存在もある。
言い訳かも、逃げ口上かも、偏屈表現かもしれないが
中毒患者の存在によって国は活かされ、また携わる人も生かしている訳であり
聖人君子の駐車違反をしないために車を乗らず、理不尽行為を受けたとしても制裁行為を
目には目を、歯には歯をの論理によって犯罪者にならないために、
どんなに傷つけられても我慢して聖人君子を通し、みんなが全ての事柄から逃げるようになったならば
きっと交通違反は皆無になり、犯罪行為は絶滅し、争う事柄も結果としてゼロになり
警察官、自衛隊、裁判官や弁護士、行政書士や司法書士、刑務官などの職は全て無くなる事であろう。
しかし、現実にはそうならず、刑務所に入る人間が一定数居る事によって、
刑務官と裁判官と警察官が活かされているような構図でもある。
何故ならば教育レベルと理解力レベルが低いほど犯罪数・依存度は強くなる傾向があるから
現在の日本の教育レベルと理解力レベルが、水準を表しており、MAXに到達したときに
全ての犯罪も依存症も中毒も無くなると考えられる。
しかしながら現実のレベルは必要悪という括りで成り立っており、
生業にする人の生活の為に依存者が必要であり、中毒者が必要と考えるならば、
つまりそれは、必要依存症、必要悪とでも呼べばよいだろうか?
アルコール中毒や薬物依存症などと云うのは、結局医療関係者には迷惑をかけることになるが
それ以外の人に迷惑を掛けないことが前提であり、
その構図が守られてさえいれば、いつまでも中毒症で居てもいい状態という事も考えられる。
これが毎日の飲酒が許される訳であり、たばこを吸っても許される訳であり・・・・。
都合のいい言い訳を語ってしまいました。
JP7FRMのmy Pick
依存のグローバルな歴史を考えてみると、人類発生から始まる起源のような気がします。
生まれた時は母親依存、生きて行く上では食糧依存、
長生きする上では安全保障してくれる人や組織に依存、
快楽を求める上では、アルコールやたばこ依存・性的依存
心の安定を求める上では宗教依存や知的依存
好きなことを自由にやりたい上では金銭依存。
苦痛から逃れる上では、医療依存と薬物依存。
人類の歴史を考えてみても、この普遍的依存構造は変わらないであろう。
必要だからこそ依存や中毒があるのだ。
必要を依存と称し、それにのめり込み必要量を超えて要求するのを中毒と云うと思う。
そういう意味では中毒と云うのは悪いのかもしれないが、
麻薬の大本の原料はケシの花であり、たばこの大本はニコチンであり、
アルコールの大本は発酵食品であり、安全保障の大本は屈強な男であり
貨幣の大本の原点は金属の金にある。
金・ニコチン・ケシの花・強そうな人間の4つの要素によって
世界は相変わらず動かされている事を考えてみると、なんと笑えてしまう事か?
こんなことの為に心は囚われて、毎日生きているのかと人生が馬鹿馬鹿しくも思えてしまう。
結局、依存するために、中毒にならないように、その狭間で我々は生きているのだ。
そんなことを思う今日この頃でした。
よくも、毎日こんなことを思ってしまうものだと自分が馬鹿馬鹿しく思えてしまい、
ふと思えば・・・もしや!?
ブログ記事を考えて安心する依存症なのか?
それとも、いいねをもらって正常を維持する中毒なのか?
と思うと更に笑えてしまいます
本日もつまらない記事にお付き合いいただきましてありがとうございました。