遺体ホテル考 | 独学の道Ⅲ

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自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。
仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。
By幸田露伴(努力論より)

 

遺体ホテル

 

 

今回の話題のネタ元の記事

 

 

衝撃的名称だ。

 

 

内容は簡単だ。

 

 

火葬場が混んでいるから、火葬するまで一時保管する場所のことを指す。

 

 

田舎では、自宅にドライアイスを敷き詰めて、1週間や10日間は置いておくことが多いが

 

都会では、置く場所が無いうえに今後、更に死者は増え一時保管場所の権利やスケジュールが

 

過酷を極めるであろうことから、緩和措置として生み出された選択肢の一つの考え方が

 

遺体ホテルという名称の場所だ。

 

 

しかし、面白いのは、同じ家族であっても死んだら一緒に居たくないと感じる心理であろう。

 

小説などでは、その逆のシーンが良く使われるが、現実にはこのようなことが起こり始めてきたらしい。

 

意思は消滅しても、肉体は残る違和感を、都会の暮らしの中では経験することはまずないだろう。

 

 

頭では解かっているが、それをどうやって理解し、腑に落とせば良いのかが分からないというのが

 

今回の現代・都会・核家族ならではの問題の本質だろう。

 

 

生と死のボーダーライン

 

 

生き方のみを追求してきた社会の典型が、延命治療であり、

 

本人の意思が疎通しなくても、関係なしに生命を限界まで生き永らえさせてきた。

 

しかしその先の事は考えていないのだ。

 

だた生かしておけば良い、その一点が医療依存を生み、

 

医療の限界が死であると認識してきたからこそ

 

医療の施せない、死者を前にどうすることもできないのだ。

 

 

今まではそんなことも考える暇もなく火葬場へと直行するという流れであったが

 

今後は火葬場の空きが出来るまで死者の肉体と直面して考える猶予の時間が出来たのかもしれない。

 

 

先ほども例に挙げたように、もう意識がない自分では自立して生きて行けない状況なのにも関わらず

 

人工呼吸器を付けて、ペースメーカーを付けて、癌の場合などは何度も切って

 

延命医療に足を踏み入れた時から

 

目の前に迫り来る死というターニングポイントを考えなければならないのかもしれない。

 

 

❶ 意思疎通が不能になった時が、本人の死なのか

 

それとも、❷ 心臓が止まった時が死なのか?

 

はたまた ❸ 火葬場に行って骨になった時に本当の死になるのか?

 

もしくは、❹ 家族や孫の記憶から完全に抹消された時が永遠の死になるのか?

 

 

今回の問題提起は、ちょうど❷と❸の間のネグレクト(放任)問題ですが、

 

実は私個人としては、❶と❷の間の延命医療問題の方の線引きに、医療看過という

 

家族と意思疎通不能当事者との死をネグレクしている問題があるような気がします。

 

 

家族は医者に任せておけば最善だろうと考え全てを託し、

 

治療当事者は痛みや苦しみから早く逃れたいのに、

 

点滴や人工呼吸器によって苦しみの期間を延長されて、その苦しみを家族は分かってくれない。

 

医師は、延命医療放棄は殺人に該当する行為だから、

 

患者がどう思おうとも、意思表示カードに特別の記載がない限り延命を続けざる負えない。

 

 

そう云った家族と当事者の肉体放任(ボディーネグレクト)が私の危惧する部分でもあります。

 

 

 

中国は、コロナ患者様にプレハブのコロナ専門病院をいくつも作りましたが、

 

日本では病院の一部をコロナ病床として確保して事にあたりました。

 

同様の考え方をすれば、今後死者が増えるのであれば、火葬場を増やせばいいだけのことですが

 

日本は、そのような選択ではなく、一時ストックする場所を作って保管し

 

順番に火葬していくという流れですので、今後大都市圏を中心に同様のNIMBY(ニンビー)

 

ニンビーとは「施設の必要性は分かるが、俺の家の近くに存在するのはやめてくれという立場」

 

のことをいいますが、そのように、ニンビー問題が少なからず出てくることでしょう。

 

 

50歳という年齢は色々とめんどくさい事に、こだわりや意見などが出てきますね。

 

 

本日もめんどくさい記事を、ご覧いただきましてありがとうございましたお願い