日曜の朝 | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。
仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。
By幸田露伴(努力論より)

アランパーソンズのなんとも言えない不安定な音楽を聴きながら熱い風呂に入り

 

Eye in the sky

 

 

その他に聞こえる音は何かあるだろうかと探してみても,

 

やはり雨の日の朝には風の音もなく、シトシトと降るばかりで、外部の生活音は聞き取れず

 

もはや耳まで老齢化してしまったのだろうかと疑いの気持ちと

 

その後に訪れる素直な気持ちの・・・なんて静かで平和な日曜の朝なんだろういう気持ちがあり、

 

次第に老齢化説は弱まっていき、穏やかさで心が満ちてくる。

 

 

50歳という経てきた年月は、おもしろい肉体的変化を感じ始める創成年で、

 

身体的動きから滑らかさを失い始め、ロボットのように・・・

 

同じ可動域の動きでは問題なく動けるのだが、

 

大きい可動域が必要になった時に途端に足が上がらなくなってみたり、

 

不意な振り返りで首を痛めてみたり、

 

片足立ちで靴ひもを結べなくなっていたり、

 

暖房のスイッチを入れた後の数秒後にはプリンターに手をぶつけてみたり

 

その後、数mも歩けば、足はダンボールの角にぶつけてみたり、(´Д`)ハァ…

 

階段では手すりに無条件で触ってみたり、

 

人に会う時には表情筋が垂れ下がっている事を嫌って、ワザと笑って見せてみたり、

 

世の中の常識と自分の世代とのギャップを見せないように、

 

自分の意見を言わずにウンウンとむやみやたらに相手に相槌したり、そうだよねって同意してみたり、

 

親切はいずれ自分に返ってくるのだと思い始めて、他人に親切をしてみたり、

 

夜の睡眠時間を削る事は命を削るように思えてきて、早寝早起きになってみたりと(^_^)

 

書けばキリがないのでこの位にしておきますが、

 

そんな事を感じさせてくれる、

 

節目の折り返し地点の肉体的ターニングポイントなのかもしれません。

 

身体的成長点のピークは、もはや過ぎ去り、残すは心の豊かさを育むことと、

 

今まで培ってきた肉体と知識において、どれだけ延命出来るかにエネルギーを注げるのかというふうに、

 

成長を考えるより老化防止と自立期間(健康寿命)の充実に視線を変える事を教えてもらえる、

 

動きのぎこちなさであり・・・、もはや恋に溺れてトキメク心臓の動悸を遥か彼方に忘れてしまい、

 

パニック障害や強迫神経症、狭心症などという言葉を即座に連想してしまう動悸の年齢に

 

成り果ててしまった。

 

 

そんな中で迎える平穏な朝風呂はスマホで記事を書いているうちに、

 

いつのまにやら湯が冷めてきて、強制的に上がらざる負えなくさせる。

 

あと20年程経ったら、記事を書きながら湯と共に身体まで冷たくなっているかもしれない。www

 

ある意味で平穏な最後だ。チーン

 

しかしながら、心臓の動悸が早くなっているのは、恋した動悸でも、狭心症などの動悸でもなく

 

身体機能回復の証である動悸らしい。

 

ある意味で、平穏を保てそうな一日の始まりだ。

 

すいません。パックそんなエッセイで上らせていただきたいと思います。オバケ

 

あー温まったーお茶

 

ウェイチョキ

 

朝の一枚

 

 窓辺に映る朝日の煌めきをピンボケにして撮影

 

ご覧いただきましてありがとうございました。

 

明日の記事はロングバージョンです。(未来記事書いたよ)