いまさら | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。By幸田露伴(努力論言葉より)

今更、何が出てくるのでしょうか?

 

今朝、掃除をしていたら、何故だか・・・とあるワンシーンを思い出し、頭の中をループし始めました。

 

何かの掲示か?と思い、

 

何で?

 

こんなタイミングで?

 

思い出しちゃった?のかな・・・・

 

分からないままに・・・

 

致し方なく動画のワンシーンを思い出すべく、引っ張り出して観てみました。

 

 

私の大好きな映画「大誘拐」岡本喜八監督作品

 

 

 

これを見た直後に、人から譲り受けたフェンダーミラーの黒いディーゼルエンジンのクラウンで

 

紀伊半島に行き

 

 

龍神村から尾鷲市まで山道を聖地巡礼したのは、かれこれ30年も前になるでしょうか?

 

それ程までに印象的であった大誘拐という映画ですが、

 

そこかしらに、名シーンが散在していて、どこをカットしても素晴らしいのですが、

 

今回はこのシーンを思い出しました。

 

北村谷栄さん(誘拐された側)と風間トオル(誘拐した側)の素性を明かすシーン

 


俺という生地のままで居とうなったんや

このフレーズが何故だかループし始めたのだ・・・なぜだろう

 

人の心の最も純粋な場所を開放し、さらけ出す気持ちよさを、

 

おばあちゃんが経営していた孤児院で育っていた時は、いつも天真爛漫に心をさらけ出していたのに、

 

とあるきっかけで孤児院を飛び出してしまい、世間という荒波の中でいつの間にか

 

心を閉ざし生きて来た男は、

 

やはり母のように自分を見守って居続けた、かけがえのない目の前にいる老婆の前では、

 

脆くも、他人には厚くて剥がせない鎧も、まるで砂の鎧のようにあっさりと剥がれ始め、

 

とうとう鎧を脱ぎ捨ててしまい、

 

または、脱ぎ捨てなければいけないような畏敬の念を持って対面し、本当の話をしなければ

 

失礼とばかりに素性を語る犯人は、いわゆる唯一無二の母親という存在を誘拐して

 

自分を騙し続ける事は、

 

相手の自分を見透かす心をいつまでも裏切りを続けているようで耐えられず、

 

率先して自分の素性を名乗ってしまう。

 

 

この・・・他人同士なのだが、孤児院という性質上から、子供には幼少期を大切に育んでくれた

 

母親代わりの刀自(とじ)という存在は、いつまでも母親という存在であるのだという、

 

日頃忘れている、心揺さぶられる感情を思い起こさせてくれる。

 

 

介護施設にお任せし、自宅介護が少なくなってきているこの世の中に於いて

 

普段は軽視している親子関係や、うざい、お荷物だとばかりに思ってしまう昨今ではあるが、

 

そういう時ほど、育てられた恩や気持ちというものを思い出して、

 

感謝して接しなければならないのだと、改めて思わされてしまうのであった。

 

ちょっと、今日は感受性が豊かな日なのだろうと感じるワンシーンの振り返りとなりました。

 

お付き合いいただきましてありがとうございましたお願い

 

おまけ

 

樹木希林の最高の名シーン


 

汗を拭いた手ぬぐいでお茶碗を拭いているシーンは、今見ると何とも汚らしいが、

 

昔はそれでも綺麗にするという形の現れであり、私の地元でもやっている人を見かけたことがある。

 

気持ちはありがたいのだが、それは止めてくれーと思いながらお茶が出されると

 

飲まないと失礼な気がして、忍耐で飲んだことを思い出す。

 

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にしても、これだけ人に会って感動して迎え入れられるというのは、

 

相当にお世話になったという証でもあり、

 

人の絆の強さでもあり、

 

今の時代、そんな事があるのだろうか?

 

誰しもが、自分一人の我力で生きて来たようになってしまっているのではないだろうかと

 

希林さんの応対から感じさせられる部分でもあり、

 

古き良き昭和の時代を現わしている部分でもあったような感じがして、

 

なにやら考えさせられる素晴らしい映画作品としての記録でもあり

 

岡本喜八監督には、このように素晴らしい作品を残してくれて、本当に感謝しかない。