悪人と云えば何を思い起こすでしょうか
このブログをご覧の皆様は、私の思考の方向性が・・ほぼお分かりだとは思うのですが・・・・
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いや そんな他人の脳みそ分かるか!ボケ!と突っ込みたくなる気持ちも分かります。
今回は、歎異抄(たんにしょう)についての悪人の意味が、やっと咀嚼できたというお知らせです。
↑ そんな事は・・・どうでも良いですから~許して
法然の弟子である親鸞聖人が語った言葉を、弟子の唯円が書き残したとされる書物が歎異抄です。
生きる事は幸せを探す旅であるという概念はとても分かりやすく、
まさに過去の時代より、人間という生き物は、日々幸せを探求し続けながら営みを続けて、
そして歴史を紡いできているのだな~と共感させられます。
その書籍の中にあって、最大の難題とされるのが
この当時の善人と悪人という意味は、善人とは自力によって悟れるように努力する人。
そして悪人とは、努力できないので他人に委ねる人の事を指します。
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私の認識では、そうなのかな?と思い込んでおります。
100分で名著というNHKの番組でも語られていましたが、水泳が出来る人と出来ない人が
海で溺れているときに、先に救うのはどちらかと云えば、泳げない人から。
つまり、仏教の世界でも勉強していない人の方が救いやすい訳です。
私もブログのタイトルで使用している、独学というように、努力して悟りを得ようと・・・・もがき苦しみ
死ぬまでに・・・・人生とは?・・や
この世界とは?
なぜ人は生きているの?
などなどの・・・半ば中二病ではないかと思えるほどの疑問について・・・
もろもろに悟ろうと考えて付けたタイトルなのですが。
このように自身の力で克服しようとする事を、親鸞は自力と呼び、
お任せしますと相手に委ねる事を他力と呼ぶわけですが。
宗教理論において、救済し易いのは、他力本願の悪人が先であって、
自力本願の方は後回しになるというのです。
先ほどの水に溺れる理論から行っても当然、溺れる前に救い出せ!・・・・ですよね。
それが故に、自力で頑張った善人は自分が他力である悪人である事の
自覚をしていないので、救いずらいという理屈なのです。
以前に悟りには10段階ほどの道のりがあって、悟ったのはお釈迦様ただ一人であり、
随分と近くまで接近した悟りを得た人は、これまでに一人。
それ以外の悟りを目指す人は、1段階目止まりであるという記事を書いたことがあります。
つまり、悟りを得ようと努力する、ほぼ全ての人は、自力での悟りを得ていない事になります。
つまり、これらの善人と思っている部類の独学の人間ほど、自分は悪人なのである
という自覚を持たねば、救済はされないという事なのだと、ようやく本日分かった
・・というか悟ったのです。
つまり自分は悪人なのです。
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簡単に例えて云うならば、孫悟空がものすごい速度で飛べると言って世界の果てまで行ってやると
行って見たものの、世界の果てにある棒に、俺は世界の果てまで来たのだ!と印をつけて帰るものの
結局は、お釈迦様の手のひらにある指に印を書いてきただけの事であり、
手のひらで転がされているという例えを日頃から使うように、
自分の人生は、誰かの手の中で・・・ただ揺らめいているだけの事なのかもしれない。(By悟り)
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長々と悪人について書きましたが、
自分は出来ないのだ! お願いいたします。
だから、お委ねしますという謙虚さが必要なのかもしれないなーと思う訳です。
どうしても、自力で頑張っていると、世界は俺が回しているんだ!・・・じゃないですけれども・・・
自分一人で築いてきているかのように・・・錯覚し、仕事や家庭などで思い通りに進まないと
人生が終わった感が発生して絶望してしまうのも、このジリキ力が強すぎるが為なのかもしれません。
勝手な推測ですが・・・何故芸能人が自殺してしまうのだろうか?と考えてみた時に
もしかして、自力リョクが強すぎるために先行きに絶望してしまうのではないだろうか?
などと思うのです。いや本当の所は誰にも分かりませんけれども・・・・
この事から、自力の果てに絶望感を感じた時は、一旦すべてを周りの人すべてにお委ねします!
というスタンスで目線を謙虚に引き下げてみるのも必要かもしれません。
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などと分かった風に書いては見たものの・・・・
果たして・・・そんな事が出来るのでしょうか?
という事で、今日の悟りは、悟りに反しますが・・・
悟れないんだという自覚を持つ。という事を悟る。
何だかアンチテーゼになってしまいましたが、
ここまでお付き合いいただきまして、誠にありがとうございます。