鬼滅の刃から見る、人と人間の違いについて | 独学の道Ⅲ

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自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。By幸田露伴(努力論言葉より)

先日注文した7冊のユダヤ教に関する書籍の3冊が届きました。

 

 

 

最近、アラブ教、イスラム教、キリスト教、など1冊ずつ乱読して、

 

何となく宗教の違いなんてものを感じ取っておりますし・・・

 

その背景には哲学者の意見を取り入れて、

 

 

同じ宗教の中でも、最初の頃から比較すると、編纂を繰り返されながら、

 

解釈が変わり、現代の哲学論を組み込み、ストーリーと解釈が盤石となるように作り変えられ、

 

ツッコミどころが少ないようになり、改訂出版されています。

 

つまり、宗教は時代によって違うという共通点を見い出すことが出来ました。

 

何でも金太郎飴のように統一したくなってしまう癖は良くありませんが、

 

個々に編纂・解釈の違いはあれども、さらには英知の導きという点では、

 

仏教でいう所の無から有へ、諸行無常の響きありに代表されるように、悲観的表現から、

 

もしくは終末視点からの回帰による思考をどん底まで貶めてからの・・・・・悟りに導かせる・・・

 

という形での気づきを促すやり方の宗教と比べると、

 

西洋宗教は、比喩、換喩、転喩などの対象物をストーリ―化させて、

 

それだけを読めばストーリーではありますが、物語に隠された伏線を探し出し、解釈し

 

ひとつづつフラグの回収を行いながら、読み進めていく楽しさという意味では、

 

キリスト教などの聖書や○○書というエピソードは、面白い読み物のような気がします。

 

 

最近、ユーチューブなどで解釈動画を見ながら・・・なるほどねーと関心する事ばかりです。

 

 

さて、本題の人から人間へという事ですが

 

 

猿などの動物は、ファミリーに餌を与えると、一番力の強いものが食べ終わるまで、

 

子供であろうとも、その餌にありつくことが出来ません。

 

可愛そうですよね!プンプン!

 

故に動物園では、個々にカップに餌を分けて置いておき、ボスに独り占めされないように

 

餌を与えるという事が多いかと思います。

 

 

我々、人類も飢餓の状態で、餌があるのなら、誰にも奪われないように、・・・・・そして、

 

隠しながら食べるかと思います。←卑しい感じ

 

しかし、家族が出来た時などは、子供に奪われないように食べるという事はしないはずです。

 

ここが、人から人間に変わった時の瞬間な訳です。

 

つまり、相手を思いやる、相手が嬉しいことをしてやって、自分が喜ぶ

 

他人の喜びは自分の喜びでもあるというのが、人間という訳です。

 

そこで、鬼滅の刃ですが、敵である鬼に対しての優しさと相手の立場に立って考えて思いやる気持ち

 

という表現は、今までのアニメには無かった視線かと思います。

 

敵と味方、のように同じ人間同士の戦いで、勝てば官軍の思想に基づいて、

 

水戸黄門のストーリーのように、こちら目線で進行するストーリ―でしかありませんでした。

 

それをあちらの側に立った目線からも考える事が出来るように作った・・・

 

そして、そこに愛の精霊という考えのドグマを表わした。・・・・

 

そして、視聴者側にもそのように考える事を提供した・・・・・

 

というのが鬼滅の刃の魅了される理由の一つかと思います。

キリスト教での愛というのは、WIKIで調べると・・・

 

家族愛(ストルゲー)、他人愛(フィーリア)、性愛(エロース)、真の愛(アガペー)

 

と分類され

 

第1話では、家族と仲良く暮らしている所を鬼によって命を奪われ、生き残った妹の禰豆子(ねずこ)と

 

ふたり、兄弟愛から鬼となりし妹を救済すべく動き出すところなどは、

 

まさに家族愛(ストルゲー)をみて感動させられる。

 

そして、禰豆子が美人に設定されており、時折見せる足の太もものチラリズムは

エロースという性愛を掻き立てられているようにも設定されているように思える。

 

このシーンは、定期的に訪れて来ることによって、チラリズム好きな視聴者の目をくぎ付けにしてしまう。

 

次に、同期で入隊した、我妻善逸(わがつまぜんいつ)と嘴平伊之助(はしびらいのすけ)とは、

 

お互いに信頼し合い、切磋琢磨していく姿は、友愛を感じさせられ、

 

主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)が、まさにフィーリアによって、仲間を増やし

 

人間として成長していく様を見ていて安堵する。

 

そして、同時に倒した鬼に対しても同情する様は、まさに他人愛に他ならない。

 

そして、極めつけの19話では、禰豆子が危篤状態の中、無き母の声を聴き、兄の為に意識を回復して

 

助けるあたりは、自分よりも他人を優遇するという真の愛に近いフレーズで、

 

感動が最高潮を迎える。

 

このように、鬼滅の刃を、西洋宗教の愛という観点から見てみると、面白い伏線が隠されており、

 

大人が魅了されて、見入ってしまうのは、愛を知り涙しているのではないのだろうか

 

そして、物語は鬼を人に戻すため英知を探そうとするあたりは、

 

まさにキリスト教をアニメという現代版の形に変えて諭されているかのようにさえ思えてしまう。

 

と勝手に分析してしまいます。

 

すみません。

 

今日も独断と偏見を持って、鬼滅の刃を分析してしまい、

 

まーこういう冷めた見方もあるんだよー的に流していただければと思います。てへぺろ

 

という事で、人と人間には間というものが入りますが、それは人間関係、

 

つまりは愛という概念が成立したときに、人間になれるという事が、

 

分かったという報告でした。

 

ご覧いただきありがとうございました。お願い