生80年と言われている今の時代、

私もとうとう「折り返し時点」に来てしまいました。


幸いなことに「ミッドライフクライシス」は

数年前に経験し終えており、

リアルに40となった今では、

さほど「危機感」を感じておりません。苦笑


ですが、やはり、考えてしまいますね。

今までの生き方の中で、悔いはなかったか、

これから何が出来るか、何をしたいか、などなど。


自分の歩んでいる道を見つめ直し、

これから先の道をどう歩んで行くか、

思考するのに絶好の機会だと思うのです。


と思っていた所に、今日の「Daily Word for Women」!

神はやはり、必要な時に必要なものを与えてくれる!

と思いました。(しかも、「第40日目」!)


Day 40
When I stand before God at the end of my life, I would hope that I would not have a single bit of talent left, and could say, "I used everything you gave me."
 --- Erma Bombeck


人生が終わり、神の前に立たされた時、与えられた才能が一つも残っていなく、

「貴方が与えてくれたものは、すべて使いこなしました。」と言えることを願う。



読んでいて、胸が躍るような共感を覚えました。

私も切実に同じように願うことだからです。

ですが、今の時点では、自信を持って言えることではありません。

なんせ、自分に与えられた才能というものを

未だに確信できずにいるのですから。苦笑


数年前の「ミッドライフクライシス」に当たるものも、

それが理由でなってしまったものだと思います。

もうすぐ40。でも自分の価値というものを見つけられずに、

成果という成果も出していなく、今までの40年近く、

何をしてきたんだろう、と焦ってしまいました。


今日の「Daily Word for Women」の最後は、

この一言で締めくくられています。


I have my own unique gifts to give to the world.

私には、世界に貢献できる特別な天賦の才能がある。


天賦の才能とは、お金儲けになるためのものや

有名になるためのものではなく、愛を通して

自分の人生の中で巡り会えた人たちの心と繋がること。

神の計画の中に、なくてはならないとても大事で必要なもの。


今日の「Daily Word for Women」を読んで、そう思いました。

これを、これからの私の目標として行きたいで
す。


きくなったなぁ」と感じる時、

自然と微笑んでしまう自分。



最近、そんな自分に気づいたことが何度かありました。

例えば、昨日。


朝、子ども達の学校に着き、ユウが車を下りてから

カバンを家に置き忘れてきたことを発見し、また家に取りに戻る。

学校に引き返し、先生の邪魔にならないように

こっそりと、教室の後ろにある棚にユウのものを収める。

と前に立つ人影に気づき、顔を上げると

ユウが、「鞄持って来てくれたの?」と聞く。


なんでもないような会話、何でもないことだけど、

20分前にカバンを置き忘れたから、私が家に取りに帰ったこと、

だから今教室の後ろでコソコソしていること。

因果関係が分っているという、普通に当たり前のことを

4歳のユウが当たり前のように理解できるようになったこと。


また、例えば、

ゴミ出しを手伝ってくれる長男が

私がガラージのドアを下ろすボタンを押した後、

ドアの近くにあるガーデン用具が

ドアに挟まらないようにちょっと中に押し入れる、

言われなくても、ちょっとした心配り、

細かいところまで気を配れるようになったこと。


そして、次男がお兄ちゃんの番の茶碗洗いを自分から進んでする。

自分よりも、他人のことを考えられるようになったこと。


全部、普通に子どもが発育している過程で見られる事でしかない。

それでも、普通すぎて見逃してしまいがちなことでもあるのでは?

普通すぎて、当たり前のこと。

今まで、どれだけ普通当たり前のことを見逃して来たのだろう。

普通当たり前だけど、心が暖まる幸せ。



よく言えば、たくましい「肝っ玉かあさん」

悪く言えば、カミナリが常に落ちる「鬼婆かあさん」

40になったのだから、今度こそイメチェンしたいと思った。

笑顔の絶えない「優しいかあさん」

そう、それがいい!


もっとリラックスして、生活の一コマ一コマを心から満喫していれば、

もっと微笑んでいる自分に気づくのかもしれません。


そう気づいた今日でした。




日は、私が日曜学校(3歳~6歳児のクラス)を教える番でした。

「教える」側なのに、いつも最後には「学ぶ」側になってしまいます。

昨日も例外ではありませんでした。



昨日のレッスンは「マタイ による福音書の第20章1-16節」で

イエスが語られた寓話、ぶどう園で働く労働者についてでした。


1 天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。 
2 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。 
3 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。 
4 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。 
5 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。 
6 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。 
7 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。 
8 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。 
9 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。 
10 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。 
11 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして 
12 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。 
13 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。 
14 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 
15 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。 
16 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。 


本当のところ、今までこの話を読んでは、

「やっぱり不公平じゃないか。」と思っていました。

すんなり、「イエスの言う通りだ」と思えないところがありました。

人間の限りある観点からこの話しを理解しようとしていたからです。

それが、今回このレッスンの準備をするに当たって、

神は、ようやく私の「目についていたうろこ」をはがしてくれ、

この話の主旨を初めて理解し、納得しました。


聖書の不思議なところは、繰り返し同じことを読んでいても、

毎回毎回新しいメッセージが得られることです。

そして、読む人によっても、その人に必要なメッセージとなって、

糧らとなってくれます。


今回、私が得たメッセージとは、

「私たちが報酬を貰えるのは、私達の行いによるものではなく、

神の恩恵によるもの」

だということです。

私達が貰った「永遠の命」という報酬は、

私たちが善を行い、徳を積んだから貰えたのではなく、

神が憐れみの神で愛のある神であるから貰えた報酬なのです。



それに値する価値がないのにも関わらず、

貰えたという恩恵なのです。

最後にやってきた労働者のグループのように、

最初のグループと同じだけ働いていないのにも関わらず、

同じだけの報酬を貰えるという恩恵です。


神の恩恵は、イエスを信じる人になら誰にでも貰うことが出来ます。

息を引き取る最後の一瞬前だとしても、心からそう信じるなら、

それでも神の恩恵に授かることができます。

もう長い間、イエスを信じている人から見れば、

それは不公平なことなのでしょうか?


私はそうは思いません。

最後の最後で神の恩恵を受けると決心される方は

同じように永遠の命を貰うことはできます。

ですが、その直前までの一生を

貰える筈の神の恩恵、祝福なしで過ごして来たことになるのです。

もし、楽で悩みなき人生だったとしても、

神と繋がるその親密な関係なしで生きて来たのだから

最高のものをミスしてしまっているわけです。


クリスチャンであるということは、永遠の命を手に入れるために

いろんな儀式、しきたり、またはルールに縛られて生きることではなく、

天の国で一緒に過ごせる時まで、この地上で

神との関係、イエスとの関係を深めながら、

神からの恵みと祝福の中に生きることです。


改めて、救いが自分の行いによるものではないということに

平安を感じ、感謝の心を持ちつつ、

人々の祝福となる「福音」がもっと多くの「労働者」に

伝わることを願っています。






回の記事 (「主役になりたかった脇役」)で、

子ども達の学校で4月に行われる

ミュージカル「Simon Says」

の配役について書きましたが、

その台本を読んで一つ学んだことがあります。


聖書の中には、救世主の誕生、処刑、そして復活、

これを信じる人たちには、永遠の命が与えられる

という預言が50以上もあります。

その50以上もの預言は、全部一つ残さずイエスによって実現されました。

言い換えれば、イエスは、唯一全部の預言に附合する「人」なのです。

8つの預言を一人の人がすべて実現するだけでも

100,000,000,000,000,000分の一の確率だと言われています。


10京分の1の確率。

普段の生活の中で「京」の単位なんて使わないので

すっかり忘れてしまい、調べてみて改めて「京」だと分ったのですが、

8つでさえこの確率ですから、

50以上ともなると、もうあり得ないに等しい確率です。


もっとイメージがわくようにように、図に置き換えてみますと、こんな感じです。

10京個のコインのうち、一つにマークを付けて、

これらの10京個のコイン全部をアメリカのテキサス州の地に並べると、

テキサス州全体の面積で2フィートの高さになるくらいの数だそうです。

その状態で、テキサス州全州を目隠しして

あらかじめマークされたそのコインを探し当てる確率が

10京分の1の確率なのだそうです。


これは、8つの預言すべてを同一人物が実現する確率です。

イエスは、50以上もの預言をすべて実現しました。

それが奇跡といってもおかしくないことがこれでわかると思います。

と同時にイエスがヘブル人の待つ、預言された救世主である

ということの信憑性にも力強い証拠となるのではないでしょうか?


イエスが4,000年もの間に渡って預言された

「いつか現れる救世主」の条件すべてに附合することは


知っていましたが、その確率を改めて数字で見て、

そして、その数字の意味を上のように分りやすいイメージに置き換えてみて

初めて震撼するものを感じました。



歴史は聖書で預言されたように確実に進んでいます。

私達は、みな違う信仰を持っています。

「神はいない」と信じる無神論説も一つの信仰です。

実は、「神はいない」と信じる事の方が

「神はいる」と信じることよりも

信仰のいることだと知っていましたか?


聖書はただ読むだけでは、

何の事を言っているのかさっぱり分らない

と思う箇所も多いと思います。

ですが、心をオープンにし、

「御言葉が分るように」祈りつつ読み続けると、

必ず「目のうろこ」が剥がれて、
聖書が生きたものとなって、

心に残ることを堅く信じています。



「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」

イザヤ書55章11節
と神は言っています。

聖書に書かれてある、秘められた神の御心が

一人でも多くの人の心に届き、

その人の霊の糧らとなり、心の乾きを潤す泉となることを

心から祈って。

台本

ども達の学校では、二年毎に全校生徒が参加する演劇発表があります。

今年はミュージカルをやるみたいで、先週オーディションがありました。


ビックリしたのは、セイがオーディションを受けたということです。

上がり性のセイは、人前に出るのを好まず、

去年は、体育のダンスの授業に一度も参加しなかったため

(ずっと見学したらしい、、、それくらい頑固です。)

体育のマークもそのためにちょっと落とされてしまったのですが、

他の選択があったのにも関わらず、

(例えば、大道具、小道具、照明、などの「縁の下の力持ち」役)

ミュージカル参加を選んだと聞いた時は自分の耳を疑いました。


去年、体育のダンス、教会でのクリスマスのパフォーマンス

などを通して、ポジティブに励ましてきたのが

ようやくセイの心にも届いて、勇気づけているのか、

前なら怖じけ付いてしまうことにも

自分から進んで立候補するようになってきているみたいです。

自分で自分の限界に挑戦し、出来ることの範囲を拡大していく、

ちょっとずつ成長していく我が息子を誇りに思いながら

見守っているところです。


さて、そのオーディションですが、

昨日、結果発表がありまして、迎えに行った時は、

シュンもセイも「むすっ」として車に乗り込んできました。


目標だった『裁判官』役になれなかったようです。

二人が割り当てられた役も重要な役だったので

なぜ『裁判官』にこだわるのか疑問でした。


シュンから渡された台本を読み終えて、なるほどと思いました。

『裁判官』は主役のようです。

ストーリー的には主役ではないのですが、

最初から最後まで登場してくるのが『裁判官』なのです。

(ステージの上には絶対に上がりたくなかったのに、

主役をやりたいとは、なんという変化、、、

とちょっと呆れてしまった私でしたが。・・・・ )



何をどう話すか、めどもなかったのですが、

早速話をしにセイの部屋に行きました。

話し始めて、パウロが「コリントの信徒への手紙一」で

語ったことを思い出しました。


 実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。 もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。 

また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。 

もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。 

そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。 

もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。 
ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。 

目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。 

そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、 からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。

麗しくない部分はいっそう麗しくするが、 
麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。 

それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。 

もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。 

あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。 

コリントの信徒への手紙一12章14-27節


私達は、自分の人生の中では主人公でも、

他人と比較してしまいがちです。


人と比べて自分は劣っている、

自分がなりたいと思う「主役」になれずにいることで

落ち込み、悲しむ時も多々あります。

ですが、脇役もいなくてはならない重要な存在なのです。


パウロの言うように、一つの肢体は体全体を影響し、

違う役割があるから、互いに働きあって、

体全体が一つとしてちゃんと働くのです。

だから、一つも欠けてはならないのです。


ただ考えてみると、人生の中で、

「主役」よりも脇役になることの方が

多いのではないのでしょうか?

でも、自分が何役かによって、

価値が変わると私は思いません。

役割が違うだけで、価値は同じなのです。


セイの心の中にもこのメッセージが

ちゃんと届いていることを願いつつ、

自分にとっても必要なワンレッスンだった

と思う自分でした。