子ども達の学校では、二年毎に全校生徒が参加する演劇発表があります。
今年はミュージカルをやるみたいで、先週オーディションがありました。
ビックリしたのは、セイがオーディションを受けたということです。
上がり性のセイは、人前に出るのを好まず、
去年は、体育のダンスの授業に一度も参加しなかったため
(ずっと見学したらしい、、、それくらい頑固です。)
体育のマークもそのためにちょっと落とされてしまったのですが、
他の選択があったのにも関わらず、
(例えば、大道具、小道具、照明、などの「縁の下の力持ち」役)
ミュージカル参加を選んだと聞いた時は自分の耳を疑いました。
去年、体育のダンス、教会でのクリスマスのパフォーマンス
などを通して、ポジティブに励ましてきたのが
ようやくセイの心にも届いて、勇気づけているのか、
前なら怖じけ付いてしまうことにも
自分から進んで立候補するようになってきているみたいです。
自分で自分の限界に挑戦し、出来ることの範囲を拡大していく、
ちょっとずつ成長していく我が息子を誇りに思いながら
見守っているところです。
さて、そのオーディションですが、
昨日、結果発表がありまして、迎えに行った時は、
シュンもセイも「むすっ」として車に乗り込んできました。
目標だった『裁判官』役になれなかったようです。
二人が割り当てられた役も重要な役だったので
なぜ『裁判官』にこだわるのか疑問でした。
シュンから渡された台本を読み終えて、なるほどと思いました。
『裁判官』は主役のようです。
ストーリー的には主役ではないのですが、
最初から最後まで登場してくるのが『裁判官』なのです。
(ステージの上には絶対に上がりたくなかったのに、
主役をやりたいとは、なんという変化、、、
とちょっと呆れてしまった私でしたが。

何をどう話すか、めどもなかったのですが、
早速話をしにセイの部屋に行きました。
話し始めて、パウロが「コリントの信徒への手紙一」で
語ったことを思い出しました。
実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。 もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。
また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。
もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。
そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。
もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。
ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。
目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。
そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、 からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。
麗しくない部分はいっそう麗しくするが、 麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。
それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。
もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。
あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。
コリントの信徒への手紙一12章14-27節
私達は、自分の人生の中では主人公でも、
他人と比較してしまいがちです。
人と比べて自分は劣っている、
自分がなりたいと思う「主役」になれずにいることで
落ち込み、悲しむ時も多々あります。
ですが、脇役もいなくてはならない重要な存在なのです。
パウロの言うように、一つの肢体は体全体を影響し、
違う役割があるから、互いに働きあって、
体全体が一つとしてちゃんと働くのです。
だから、一つも欠けてはならないのです。
ただ考えてみると、人生の中で、
「主役」よりも脇役になることの方が
多いのではないのでしょうか?
でも、自分が何役かによって、
価値が変わると私は思いません。
役割が違うだけで、価値は同じなのです。
セイの心の中にもこのメッセージが
ちゃんと届いていることを願いつつ、
と思う自分でした。