
相変わらず身体の変調が続いていて、ほんとに大変な毎日です(--;
意識もブレてしまいまっすぐ歩くだけでやっとの思いです。
身体は相変わらずダルさが抜けず、単に「波動摩擦」と言われても納得しがたいものがあります。
さてこれは本格的に何とかしないと・・・
そう思いグラウンディングしてみるものの、あまり要を為さない状況。
センタリングしてみるものの、している間は良いが、それを止めると元通りブレブレの状態に戻ってしまう。
これは経験していない人にはなかなかわからないものでしょう。
いくらネットを検索しても、本や誰かの言葉の受け売りばかりが並べられている状態で、ハンで押したように同じ言葉ばかりが検索に出てきます。
そして、ワークへのお誘い・・・
知識だけで商売されている方が多いなぁ・・・と思うが、世の中自体が「知識偏重」であってみれば致し方ないのかな?
だから、なかなか実体験に元ずく情報にたどり着かない・・・・
それでもあきらめずに探していたら、今日、やっと見つかりました。
「なるほど~。そういうことか。」
ようやく腑に落ちた次第です。
そうして周りにも全く悟られないようにタリーズで瞑想をしていると、身体から発せられる波動のせいか何なのか、私の近くに居る人が睡魔に襲われ始めてしまいました。
『申し訳ない・・・』
そう思いながら、悟られずに瞑想すること1時間。
ようやく「軸」が戻ってきました。
身体はまだだるさが残っていますが、続けていれば徐々に改善してくるでしょう。
そして、その情報を提供してくれていた方も話していましたが、時々身体のメンテナンスをすることの重要性を語っておられました。
それは当然のことで、波動が上がれば身体との波動摩擦が当然ながら起きます。
それだけでなく、波動上昇の影響からかなりのストレスが発生してきます。
気付かないだけでかなり身体に負荷がかかっており、実際に整体やボディセラピを受けると、いかに身体が悲鳴を上げていたかがわかると話しておられました。
波動上昇によるボディメンテナンスの重要性を理解してくださる方がいて、ようやく孤独感が少し和らいだ感じです。
本当に「実体験」を持たないとわからないでしょうから。
波動が上昇するということは、最終的には良いこと・・・・なのかもしれません。
最終的まではまだまだ行っておりませんので、「かもしれない」という表現しかできませんが。
ですが、その過程は「生半可」なものではありません。
多くの人は「逃げたい」衝動に駆られるかもしれませんから・・・
それでも「本来の自分を生きたい」と願う人のために、どれだけのことが出来るのかというのが、ゆらぎセラピーの課題です。
遥か昔の人たちは、そのように生きていたわけですから。
波動が上がり恐れを溶解するということは、恐れの対極へ行くわけではありません。
恐れの対極にある愛というのは、二元性の枠の中にある「条件付き」のものでしかありません。
恐れの「無い」という「条件付き」となるだけです。
これでは、新たなるカルマを作ってしまう可能性もあるのではないかと思います。
人には元来「菩薩心」というものがあると、沢庵禅師は語っていました。
どんな悪人でも、目の前で子供が崖から落ちそうになったら「あっ!」と思って心と身体が「救おう」と反応します。
思考や感情が入り込む隙間もなく発動される菩薩心・・・
これが無条件の愛情をよく表しています。
「無条件」とは「無想」の愛情でしょう。
頭や心に現れなくなったとしても、忘れているだけなのかもしれません。
きっかけで再び顔を出す可能性があります。
『再び元に戻るのでは?』
実はそんな恐れを潜在的に抱えていたりします。
それでは恐れは無くなっていません。
更には、恐れは身体にも記憶されています。
身体の不具合がいつも同じところに現れる・・・というのは、単なる日常の癖や不調和だけではありません。
交通事故に遭ったりした方は、そんな恐れの記憶が身体に残ったりします。
それと同じように感情の記憶は身体に刻まれてしまいます。
だからこそ、心と身体、そして魂の本体である波動体も同時に癒せれば理想的なわけです。
同時に観ることで「共鳴」の状態がわかりやすいですから。
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少し気を抜くと再び頭が「ぼ~っ」としてきますね(^^;
高い波動がずっと上から降りてきている状況ですから致し方ありません。
少しずつですがその波動に身体を共鳴させられるようにしなければいけません。
その経験の過程がメソッドに全て織り込まれていきます。
全ては導きの賜物です。
人は元来「魂」が引き寄せた現実を生きています。
それは誰も変わりないでしょう。
波動が上がり気付きが増えると、そのスパンが速くなるということです。
導き、気付き、変容する。
そしてまた新たに導きがあり、気付きがあり、変容する。
そうして人は成長していきます。
魂が引き寄せるものは自我が歓ぶものばかりではありません。
自我が泣いていやがるようなものも引き寄せます。
ですが人は必ずそれを乗り越えられます。
そう信じて引き寄せています。
まずは魂に気付く・・・
そこからすべてが始まるでしょう。
未知の真実を探求するのは「冒険」そのものです。
危険を冒すと書いて「冒険」ですね(^^;
そんな波乱万丈が楽しいのでしょう。
何故なら・・・
誰も見たことのない世界を「最初」に観たいからなのかもしれません。
前にも書きましたが、幼稚園の頃、誰よりも先にスタートして一番にゴールへ到達し、ゴールのところで皆を待っていましたから。
その頃から何も変わっていませんね(^^