ようやく少し気分的にのんびりできるようになったので、閑話休題みたいな話を・・・
施術をしていて時々
〈またか・・・〉
となることがある。
頭の施術(ヒーリングヘッド)をしていると、頭頂のあたりで「左手」が引っかかる。
何に引っかかるかというと「穴」に引っかかるのである。
頭頂の少し左側に「くぼみ」があり、そこに手が引っかかる感じである。
当然、実際に頭に穴が開いているわけはなく、身体を薄っすら(数センチほど)包み込むようにある霊体(エーテル)の頭頂左側に数センチほどの「穴」が開いているのだ。
初めてそれを見つけたときは「何だ?これ」と思っても、すぐにはそれが何かわからなかったが、その後も時々そういう人がいる。
そして、そういう人と話をしている中でわかったのが、「〇〇という施術」をしたことがある人はほぼ「穴」が開いているということがわかった。
霊体(エーテル)に「穴が開く」とはどういうことなのか?
私の施術で【魂結】というものがある。
これは『龍神』の「分け御霊」を「魂に結ぶ」というものである。
詳細についてはここでは語らないが、実はその施術をするときに霊体(エーテル)の頭頂部を一度「開く」ということをする。
そして、開いたところから「分け御霊」の龍が泳ぐように「入っていく」のだ。
この施術を実際に行う前に、何度も「実験」していたことで分かっていたことがある。
「分け御霊の龍」は霊体(エーテル)を開かなければ「入っていかない」ということである。
霊体を開かず分け御霊を結ぼうとしても、「入らない」・・・というより「入れない」のである。
何度やっても龍は入れない・・・・・
この身体を覆っているエーテルはいわば霊にとっての「防御膜」のようなものなのである。
霊体の「外皮(外殻)」といっていいだろう。
【魂結】で分け御霊が「入っていった」あとは、その開いた「外皮」を必ず『閉じる』ということをする。
つまり、開いたまま施術を終わらせれば、その穴から「何か別のもの」が入ってもおかしくないからである。
それを何度か繰り返し行った実験でわかったわけだ。
で、施術をしていたら「穴」が見つかる・・・・
「あぁ、この人は穴が開きっぱなしで生活しているのか。」
となるわけである。
この「穴」が開いていると確かに「霊感」は敏感になってくる。
それは、その「穴」から何かが「入ろう」とするからである。
霊から見れば「おぉ、穴があいてるぞ!!」となって、入って行きたくもなるわけである。
要はその穴のために霊に「関わられる」ということが増え、それによって「霊感」が刺激されて敏感になってくるというわけである。
もし、寒い冬に背中あたりに数センチの「穴」が開いた服を着て、背中の肌がさらされていたら背中が「スースー」するだろう。
それと同じでずっと「スースー」した状態なのである。
そして、寒いから穴から中に入って「暖かい」という具合に何かが入ってきてもおかしくないわけである。
今ではその「穴」を見つけるたびに「〇〇という施術を受けましたか?」と尋ねるようにしている。
そして今のところ100%「受けました」と答えを受け取っている。
その後、「穴」の説明をして「閉じますか?」と尋ねるようにしている。
実は生活に影響がでてしまうほどになっている人も時々居るからだ。
どのように影響が出るかというと「憑かれやすい」から「疲れやすく」なるわけである。
エーテルの外皮によって守られているから「周りをうろうろされる」というのが「憑かれる」の常であるが、穴が開いているからそこから「入られる」のがその方たちの「憑かれる」になるわけである。
祓いも「手で汚れを拭き取る」のと「汚れを吸いだす」というほどの違いが生まれる。
霊のエネルギーは心にも身体にも「響き」を与え、その響きが「入ってしまう」ことで「混ざって」しまうのである。
身体はほぼ「水」である。
だからエネルギーと同じように「響き」によって『濾過』せねばならなくなるのだ。
くっ付いているものを「拭き取る」のとわけが違う。
『濾過』するには当然「フィルター」が必要となる。
そんなフィルター「何処にある?」
私が自分の身体と自分のエネルギーを「フィルター」とするしかないのである。
そして「エネルギー循環」させることで『濾過』していく。
ただ「穴」を塞げばいいという話でもないのだ。
スピリチュアルブームで様々なことをされている中で、時々このようなことがある。
多くはただの「アトラクション」であるから、このような「実害」が出る例は少ないだろう。
だが、下手に「力」があったり、たまたま「理に適ったり」することで「何かが起きる」わけである。
だが、その「起きた」ことをしっかりと『検証』する人は少ない。
自分が「何をどうしてその結果どうなるか?」という検証をちゃんとしている人は少ないだろう。
つまりは、施術をやっている当人が「穴をあけている」という自覚がない・・・ということだ。
そして、「穴を開けたらどうなるか?」という検証も当然されていない。
もちろん、施術している人自身も自分の頭頂左側に「穴」が開いていることなど知る由もない。
その「穴」が『吉』と出るか『凶』と出るか・・・
『吉』が出たら儲けものである。
しかし、『凶』が出たら損失である。
そんな「博打的」なものなのだ。
それを「理解」してやっているのなら私はいいと思う。
素直にいいと思う。
悪いとはけっして思わない。
リターンを得るにはリスクを取る必要があるのだから。
だが実際は「知らない」ままである・・・ということが問題なのだ。
そして、穴を開けるなら「閉じる」手段も確立してからにしてほしいものだ。
穴が「開きっぱなし」の人が大勢いて、知らずに生活していると思うと・・・・
そのまま「葬式」にでも行ったら・・・・・・・
「そう教えられたから・・・」
その程度の認知しかない人は多い。
昔、養老孟司先生が学生たちに質問したことがあり、「これこれは何でこうなる?」と学生に問題に対しての「理解」を知ろうと質問したところ「そう教えられたからそういうものだと」と答えられて唖然としたと語っていた。
つまりは問いに対する答えを「理解」していない。
それは「教えられた答えを記憶」していることが「理解」であると思っている・・・ということに唖然としたわけである。
答えを記憶することが「学習」となった現代人の多くは、「学び」の中で「掴む」ということが「理解」であるとは夢にも思っていないだろう。
記憶し、試験し、結果で合格する。
その流れの中に「掴む」が無いのである。
施術の手順を記憶し、手順通りに試験で実施し、結果が出たので合格。
そうやって「施術」をしている人がほとんどなのだろう。
「なぜ結果が出た?」
と「立ち止まれる人」がほとんど居ないのだ。
なぜなら「立ち止まると遅れる」という学校の習慣がそうさせているのだろう。
そして「結果」が出たらそれでいい・・・という学問の今の状況がそうさせているのだろう。
だが、結局は「掴む」ことをしていないため「不安」が常に付きまとう。
それは「理解」していないからなのだが、「理解」するということを間違っているためそこにも気付けない。
難儀な話である。