
今日、ふらっと立ち寄った本屋で何冊か手に取ってみたが、文字が全然頭に入ってこない(--;
最近、頭がぼんやりしている日が続いている。
だから、文字を見ると頭がしびれてくるばかり・・・
そんな中で一冊の本の一文だけが頭に入ってきた。
『問えば言ふ 問わねば言わぬ達磨どの 心の内になにかあるべき』
・・・一休
あなたは自分の魂に問うていますか?
問わなければ答えない・・・・
それが魂です。
ただ、問えば必ず答えてくれます。
『自分を信じよ』
それが魂からの答えです。
先日来、菊理姫も同じことを言っていました。
『信じています』と・・・
現代人は外からの様々な情報に翻弄されています。
溺れるほどに溢れる情報・・・
それを選別するのは至難の業でしょう。
自分の心を素直に受け止めていれば、たとえどんな権威者が発した言葉であっても、引っかかるものがあればすぐに気付きます。
その引っかかりを見逃さない。
それが大切です。
そして、自分の魂に問う。
すると必ず答えがやってくる。
今日、本屋でやってきた答え・・・
それを感知できるかどうかも、素直さがカギを握っています。
自分に嘘をつかず、エゴに惑わされず・・・
心の波を静めて静かに水面に映るものを見る。
『水月』の極意です。
魂と以心伝心出来ているか?
その心を持ち続けるのが『禅』の心。
そして、以心伝心の間が「間髪を入れない」ほどの間となれば、禅の極致となるでしょう。
間があればそこに魔が入るスキを与えます。
だから間髪を入れない間が尊ばれるわけです。
自我と真我が和合した状態
それが以心伝心の極致です。
ちなみに、禅という文字の右側のつくりのツかんむりは、元々は口口という口(くち)が二つでありました。
神という字に口ふたつと一を付けて禅となります。
神に一つ問うて応えを得る。
神との対話・・・それが禅です。
神とは魂
自分の魂です。
だから神社のご神体が鏡なわけです。
最近、頻繁に近所の北野天満神社へ行って『導き』を問うています。
するとその日のうちに気付きが現れる。
結局のところ自分(自我)が自分(魂)に問うて自分(魂)が自分(自我)に応えているんですが・・・
ブッダが涅槃に旅立つとき、最後の言葉として様々な言葉を残しています。
その中に「経典も疑え。私の言葉も疑え。」とまで言っています。
最後に答えを出すのは自分だということです。
自らに問い、自らが答える。
その大切さを伝えたかったのでしょう。
達磨もブッダも自らに「問い」続けた人ですから。
誰よりもその大切さを知っています。
言葉の認識を間違ったまま鵜吞みにせず、ちゃんと自分に問うて納得せよ。
説得ではなく納得です。
正しいとされるものを闇雲に正しいと受け入れるのではなく、引っかかりがあるのに「正しいはず」として説得するのでもなく、引っかかることは引っかかる・・・それを魂に問えということです。
そうして引っかかった違和感の正体を突き止めて、在るがままの言葉の「姿」を認識することです。
『我を疑え。さすれば我に回帰するであろう。』
これはニーチェの「ツァラストラかく語りき」の中の一文。
ツァラストラとはゾロアスターのことです。
ゾロアスターとは約1万年ほど前に、世界最古の宗教「ゾロアスター教」を起こしたその人でもあります。
ゾロアスター教の教義は「善と悪」という二元論の始まりであります。
ゾロアスターの時代の善悪と、現代の善悪は根本的に違うでしょう。
現代の善悪は非常にグレーな部分が多い。
それだけふんわりと、なんとなく認識している程度だからです。
ちなみに、善悪を自らの魂に問うた人など、ほとんどいないでしょう。
現代の道徳も然りで、老子の『道徳教』を中心に据えて教えてはいません。
ふんわりした「善悪」の観念を元に教えられています。
道徳教の理の中心には陰陽の論理があります。
つまり「不変の理(ことわり)」が中心にあるわけです。
ゾロアスター教の善悪の理も同じでしょう。
「両方存在して一対(いっつい)」となるのが不変の理(ことわり)です。
であれば、善のみでは存在し得ず、悪のみでも存在し得ない。
それが不変の理です。
善悪を「ふんわり」と「グレー」にしか認識していなければ、理解できません。
幸せや不幸と同じです。
それは「識別」
人の行為や出来事を、受け取る人がどのように「識別」するか・・・という問題です。
人を殺した・・・
殺された側の親族から見れば「悪」です。
ですが、殺されたものが誰かを殺そうとしていて、それを防ぐために殺した・・・となれば、殺されかけていた人から見れば「善」です。
陰陽あって一対・・・
善悪という識別も、視点、基点で一対です。
これは非常に単純な例ですが、善悪をある種のエネルギー的に捉えれば、様々なものが見えてきます。
小さな悪が積み重なって、大きな一つの悪を生み出す。
しかし、その裏には小さな善も積み重なっていたりします。
一つの悪が善を生み出すが、その善もまた悪を生み、連鎖となって広がってゆく。
善悪表裏一体のエネルギーが広がっていくわけです。
これが分離と対立の波動原理でしょう。
善と一対にすることで悪のエネルギーを劇的に増やすことが出来るわけです。
善の名のもとに行う悪行は非常に行いやすい。
時にそれを人は『正義』と呼ぶ。
善いことをしているつもりになって悪行を行う。
それが蔓延しているのが現代です。
人が誰かのために何かをする。
それはごくごく当たり前の人間としての行為です。
それに「善」という識別を付け、その対(つい)に「悪」を付ける。
それが「善悪」の理(ことわり)
善などという識別を付けずとも、人は当たり前のように共生するために、人の役に立とうとします。
識別など必要ありません。
そんな識別を超越したもの・・・
それがワンネスなのでしょう。
識別はあくまで「管理するための法」に必要なものというだけです。
管理者・・・・
つまりは支配者にとって必要だからということで生まれたもの。
陰陽も「識別」のためにある理(ことわり)
理があるから識別できると言ってもいいでしょう。
言い換えれば「識別しなくても在るものは在る」わけです。
何が言いたいのか?
識別に囚われ過ぎないことです。
在るがままに自らが「在る」ということは、そんな識別を解脱して「在る」ということです。
識別に囚われ、結果、迷い・・・
自らの識別の選択を気にしてしまう。
だから「自らに問え」とブッダも達磨も伝える。
在るがままに在ればおのずと「理に適う」わけですから。
だからこそ「経典も私の言葉も疑え」となります。
自らの魂に問う
それが一番ですから。
悪だけでは存在し得ず、善だけでも存在し得ず・・・
ただ、悪を消して善のみ存在しうる方法・・・・
それは識別を変えること。
善悪の識別をきちんと認識し、それをきちんと変えて行く・・・・
一対なるものを分離するのではなく、和合させるということです。
それには、悪の中に善を見て、善の中に悪を見る『目』が必要です。
善の皮をかぶった悪が蔓延する中、見極めるその目は非常に大切です。
そんな目を養ってほしいと思います。
自らに問うことの大切さ
そして、「明鏡止水」
心の波を静かにする大切さを知ってほしいと思います。
静かなる心 水の如し ありのまま 鏡の如く映し出す
・・・如水庵
禅の心・・・
水月の心です。
Re:Quiem Suigetsu (水月)Aroma Blend