カオス | 神人一致の癒奏術・響庵

神人一致の癒奏術・響庵

ホリスティックセラピスト、ヒーラー、アロマブレンダー、メディカルハーブ、薬膳・漢方等々、様々な「癒し」を奏でる『ヒューマンセラピーメソッド』
それが【癒奏術】です。

ホームページ
https://yhibikian.wixsite.com/akuh

さて・・・

またか・・・と思う。

やりたくないことをやらねばならないのかと、ため息が出るばかりだが

 

誰も好き好んで敵を作りたいわけではないが、これも自分の変わらぬ運命なのだろう。

「浄化」することが、自分の仕事なんだなと最近気付き始めた。

「邪気を吸い取る」のもそのうちの一つなのだろう。

 

 

 

 

 

 

かつて富士山の麓の裾野に鎮座して、更なる高みに登れることを説いていた人物がいた。

 

その名を麻原彰晃と言う。

 

 

富士山の頂点に立つには、二本の足で坂道を歩き、薄い空気に耐えながら登頂せねばならない。

しかし、そんな苦労をせずとも登れる・・・と言って裾野で人を集めていた。

『楽して登れるなら・・・』

人の「エゴ」を利用したうまいやり方である。

 

善の心をくすぐり、内在する怒りをくすぐり、楽をしたい心くすぐり・・・

エゴを満足させることに非常に長けていたわけである。

 

 

 

現在、「アセンション」という山の周りに、数多くの新興宗教のような集団が存在する。

自由を唱え、幸せを唱え、喜びを謳歌することを唱え・・・

 

エゴに取り込まれたリーダーのもと、人々が集まる。

少し前の言葉で言うところの「リア充」というのだろう。

 

 

 

エゴとは強烈である。

それはそれは、様々な仕掛けで山を登る人を惑わせる。

それらすべてを振り切ったとき、初めて頂からの景色が見られるわけだ。

 

 

 

麻原彰晃も初めは崇高な志を持っていたかもしれない。

しかし、山を登る途中で「満たされ行くエゴ」に取り込まれ、やがて道を見失ったのかもしれない。

 

アセンションの名のもとに、道を踏み外してエゴに取り込まれてしまっている人の、なんと多いことか・・・・・

 

 

 

かつて頂まで登り道を示したマスター達の軌跡を見れば、道が何であるかは自ずとわかるはずである。

それを無視してエゴに取り込まれ、更にはマスターの名を利用して、更なるエゴを満たす行為をしている。

彼らマスター達の嘆きの声すら届かないのであろう。

 

エゴに溺れ自我の頑なな殻に閉じこもってしまって、恐れのない安全地帯に引きこもってしまったスピリチュアルリーダー達。

ディセンション(次元下降)をアセンション(次元上昇)と思い込み、山を登ることを辞めて自我の殻に閉じこもり、夢の世界で生き始めている人のなんと多いことか・・・・・

 

 

山の頂へ行くには様々な障害が待ち受けている。

恐れ、痛み、悲しみ、喜び、楽しみ、寂しさ・・・・

道の過程で自我が用意する様々な「逃げ道」に、取り込まれずに山を登り続ける者だけが、頂からの景色を目の当たりに出来る。

 

 

山を登る道は孤独な道だろう。

逃げたくなる気持ちは当然わかる。

逃げたいときは逃げればいい。

そして、再び登る気力が戻れば登ればいい。

 

だが、逃げたにもかかわらず「頂まで行った」と嘘をつくなかれ。

それはかつての新興宗教と同じことをしていると知る必要がある。

 

 

逃げた「道」を広めれば、そこにはディセンションのエネルギーが生まれる。

そのディセンションエネルギーは更なる低次元の波動を呼び、かつてオーム真理教が辿った道のように、「蛇の道は蛇」へと陥落していく可能性があるだろう。

 

現状はそれほど逼迫しているということだ。

だからこそ「浄化」のイメージばかりが下りてくる。

 

波動上昇しながらも、何故か下降する波動を感じていた。

その意味がようやくわかった気がする。

 

それが現状の「カオス」を引き起こしているということらしい。

 

 

 

和らぎの縦糸だけでは隙間が出来て、その間(マ)に魔(マ)が入るスキがある。

だからこそ厳しさという引き締めるための横糸が必要なわけである。

 

 

自分を見極めよ。

自分に嘘をつくなかれ。

 

山を登りたいなら登ればいい。

もう登りたくないのなら登らなくていい。

 

ただ・・・

本気で登るものを惑わすなかれ・・・・・・・・・・

 

逃げ道は本道にあらず、あくまで外道であることを認識せよ。

 

 

 

つまり・・・

これ以上余計な仕事を増やさないでほしいということだ。