先に常設展示を見て廻った茅野市八ヶ岳総合博物館には「博物館内の一室を展示スペースとして」八ヶ嶽岳麓文芸館という施設が併設されておりまして、普段は「諏訪地方ゆかりの歌人、俳人の作品を展示しています」と。さりながら、訪ねた時には博物館の特別展がこのスペースで開催されていたがために、本来の展示は見ることができませなんだ。

 

 

とはいえ、特別展は特別展で見ておかねば…と思うところですが、ちと常設展示の振り返りに少々の積み残しがあると思い出し、まずはそちらの方から触れておこうかと。「山麓のなりわい」というコーナーになります。

 

 

地域として高冷地なだけに農耕には苦労があった(展示解説に曰く「冬の気温が緯度の高い盛岡とほぼ一致する程低く、降水量は同緯度の福井に比べて著しく少ない」と)ものと思いますが、なりわいとして農耕以外の特産品作りを日々の助けとしていたようですな。その一つが寒さを逆利用した寒天づくりであったそうでありますよ。

諏訪で寒天製造を始めたのは…江戸時代末期(1840年代)のことでした。農家の副業として始まったのですが、しだいに専業化し、天然製法ではわが国第1位で、国内はもとより広く海外に輸出されています。

 

天然製法とはいえ、使用する機械はレトロ感あるも結構大がかりなもののようで。まあ、今はも少し今風の機械になっているのでしょうけれど、それで国内1位の生産を担いつつも、BtoBの原材料供給となっているのでしょうか。茅野駅前の土産物店にはなるほどいろいろな寒天が置かれてありますけれど、幅を利かせているのは「かんてんぱぱ」の商品だったりして。あちらは同じ長野県でも伊那市の会社なのですけれどねえ…。

 

ともあれ、寒天とともに地域の特産品となっているのが、なんとまあ、のこぎりなのだそうでありますよ。「諏訪鋸」として「品質がよく、値段もそれほど高くなく全国的に有名」というのですが、初めて聞きました。江戸期には諏訪を治めた高島藩が地域産業として奨励したいたということでありますよ。

 

 

と、常設展の積み残しがあまり長くならないうちに、特別展の方のお話も。開催されていたのは「古墳の茅野 -地域のなかの古墳-」でありました。

 

 

前にも触れましたですが、信州、取り分け諏訪の地域はかつて縄文と弥生のせめぎ合いが最終局面を迎えたであろう場所とも思われるのでして、そんなところだけに「(弥生の延長の)古墳であるか?」と思ったり。されど、時代の移り変わりが定まりますと、縄文遺跡が多数みられる土地にはその後の人たちもやはり集住することにあったか、土地土地の首長墓が古墳という形で築かれることになったのかも。「茅野市域は、諏訪地域のなかでも多数の古墳群が形成された地域」なのだとか。常設展示にもこんなパネルがありましたしね。

 

 

ちと注目したいのが真ん中下の方にある「守屋山麓古墳群」でしょうか。守屋山というのは諏訪大社上社の御神体ともされる山でありまして、同社の神長官(じんちょうかん)という役割を代々担う守矢家の先祖にも関わりましょうかね。今では諏訪大社も神社ですので、いわゆる神社、神道の系譜は弥生以来の稲作と関わる信仰と思うところながら、上社前宮と本宮の間にある神長官守矢史料館の展示を見れば、祭祀のあり方がむしろ縄文由来の狩猟採集に基づくような気がしてしまう。そういう伝統は今にも残しつつも、埋葬儀礼ではヤマト王権に従うような形で古墳を築いたのであるかなあ…などと想像を膨らませたりしたものでありました。

 

 

まあ、ここでの展示にはそうした想像に関わるような説明はありませんで、あくまで「茅野市域に築造された古墳の地域的特徴という観点」から解説しているわけですが、どうにも想像は膨らむ一方でして(笑)。

 

 

展示を見ながら思ったところは、古くからが設けられた土地柄だけに、馬具の出土品が多いのかななどとは。左は轡でして、右側も杏葉(ぎょうよう)という唐鞍の装飾品ということで、いずれも古墳時代後期(6世紀)の副葬品だったようでありますよ。

 

と、些か特別展の方は勝手な想像ばかりが渦巻いて振り返りとしては舌足らずながら、展示をさまざま眺めて興味深いところもあった茅野市八ヶ岳総合博物館なのでありました。