静岡県富士市にあります富士山かぐや姫ミュージアム(富士市立博物館)の展示を振り返っておるわけですが、かぐや姫関連に続きまして館内で最も広い展示室①に設けられた「富士に生きる」というコーナーへ。
まずもって正面には富士山由来の火山弾やら溶岩やらが展示されておりますが、現在の富士市を含む富士南麓の土地の成り立ちそのものが、富士山の噴火と大きく関わっていることを想起させますですね。
今から16,000年以上前、まだ日本列島で土器が発明されていない旧石器時代から、富士・愛鷹山南麓に生きた人々の歴史がはじまります。
「富士山誕生以来のすべての火山灰が降り積もってい」るというこのあたり、「旧石器時代の遺跡も火山灰にパックされた状態で発見され」、また「下層にいけばいくほど、古い生活面であると判断」できる指標にも火山灰は使われているのですなあ。今と違って噴火頻度の高かったであろう時代、リスクと引き換えに享受できる自然の恵みを求めて、海・山・川のあるこの地で暮らしたのでありましょう。縄文期のものとなると遺跡の数も増えていくようで。
というところで、よく知られるところながら富士山が現在の姿に至るまでを見ておくとしますか。
古御岳火山の脇から成長した古富士火山の上に、さらに新富士火山が覆いかぶさった…とまあ、ざっくり言えばそういうことですな。簡単に言ってしまいましたが、こうなるには相当量の火山噴出物があったわけで、土地の成り立ちがそれに依拠しているというのも頷けるところではないでしょうか。
それにしても、富士の裾野を巻くように流れ下る富士川が海へと注ぐ部分、今の富士市をすっぽり覆ってしまうくらいに広い氾濫原が広がっていて、それが近代に至るまで続いていたとは、やはりこのあたりで生活するのは大変だったんではないですかねえ。吉原宿の移転が何度も繰り返されたというのもむべなるかなです。
と、そんな住みにくそうな場所ながら、リスクと恩恵を天秤にかけながら人々は暮らし続けたようでして、それなりの集住があった故でしょうか、時代は下って大宝元年(701年)に大宝律令が定められますと、「ほどなくして地方には国・郡・郷・里がおかれ、およそ現在の富士・富士宮市域にあたる範囲は、駿河国富士郡と定められ」たのであると。
勝手な想像でしたですが、現在の富士市というネーミングは近隣市町村の合併で「市」ができる際にでも、富士山のお膝元であることに肖って(実は東西南北にぐるりとお膝元はあるわけですが)作られた新しい名称かと思ってしまったものの、実は律令時代から続く由緒あるものだったのですなあ…。
奈良時代には富士郡家(「ぐうけ」と読むらしい)が設置され、「郡内から租税として集められた米や布、海産物などを管理したとみられる倉庫群がおかれ、周囲には役人や僧侶、小鍛冶や紡織にたずさわる技術者や労働者たちが集まって住んでいたと考えられて」ているそうな。
先に屋外展示と言える「ふるさと村歴史ゾーン」でもって東平遺跡の遺構から復原した高床倉庫を見たですが、館内の展示解説に触れて何やら「ありがたさ感」が増したような気がしたものです(笑)。
てなことで、旧石器時代に始まった話は奈良時代あたりまで進んだところながら、この先がまだ残っておりますなあ。ですので、次には鎌倉時代以降を駆け足で振り返ろうと思っておりますです、はい。





