さてと、静岡県富士市を訪ねたお話も進めておかねばなりませんですねえ。広見公園をぐるぐるした後にようやっと富士山かぐや姫ミュージアム(富士市立博物館)にたどり着いたわけですが、そもそもはここを訪ねることが旅の発端でもあったと今さらながら…。
建物の外観は幾分そっけない印象で「富士市立博物館」然としておりますな。されど、館内に一歩足を踏み入れますと、「ああ、富士山かぐや姫ミュージアムなのであるな」というふうにも。
とはいえ、何とは無し、雑多なものがいろいろと雑多に置いてあるような「地域の」博物館であったかと思いかけたところながら、展示室が集中的に配置された2階に挙がってみますと状況は一転、最新と思しき展示の数々が展開されていたのでありましたよ。
最初の展示室はまさに土地柄、「富士に生きる」というコーナーなのでして、これはこれで非常に興味の惹かれれるところではありますが、まずは別室で「なにゆえ、かぐや姫?!」を探っておかねばなりませんですねえ。
今は昔、竹取の翁(おきな)といふ者有りけり。野山にまじりて、竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。名をば讃岐造(さぬきのみやっこ)となむ言ひける。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。
とまあ、かような語り起こしで始まるのが『竹取物語』ではあるとは知っている(何せ古文の授業で暗記させられた…)わけですが、実はその後の展開をおよそ知らずに何十年も過ごしてきてしまいました(多少は授業で扱ったかもですが、まったくもって記憶にない)。後付けながら、求婚者に無理難題を課してあたふたさせた挙句の果てに月に帰っていってしまう…とだけ(苦笑)。
ともあれ、一般に知られる『竹取物語』をざっくり言ってしまえばかようなことになろうかと思いますが、富士市の界隈ではどうやら話が違ってくるようでして…。
「富士山のふもとで美しく成長したかぐや姫の去った先は、月ではなく富士山の頂であった。」
富士山の南麓では、広く知られた竹取物語とは異なるストーリーが古くから語り継がれてきました。
展示解説にはこうありまして、「この地域には、かぐや姫にゆかりのある場所が数多く残されています」とも。そもそも竹取の翁は富士の麓、乗馬(のりうま)の里というところにおばあさんともども住まっておったそうな。
古代から牧のある土地柄らしい設定で、竹取の翁が何らかの官職と関わりある存在であるような想像にもつながりますですね。「姫が16歳になったころ、后探しをおこなっていた帝の使者がおじいさんの家に宿をとりました」というのも、先に見て来ました明治天皇行幸の際に吉原宿で休憩をとったのは豪農の家だったり大きな旅館だったりするわけで、この時もただの竹取じいさんの家に泊まるはずがない。高級官僚OBの屋敷だったのかもしれませんですよ。
まして、いくらかぐや姫が美しいといって、「帝の后にふさわしい娘」とまで言うにも相応の家柄とでもいいますか、そんな背景がありそうですしね。ですが、かぐや姫は帝の后となることを拒み、「富士山のほら穴に入るつもり」と言い出したと。翁も媼も近在の人たちも嘆き悲しみ、別れの日にその人たちが流した涙が「憂涙川」(潤井川・うるいがわ)になったのだとか。富士川水系の潤井川は吉原地域を氾濫原にしたりもする川ですので、よくできた話でもあろうかと。
富士へと登るかぐや姫との別れを惜しんで涙する人々の場面
姫はやがて、山頂にある釈迦岳の近くの大きな岩にあるほら穴に入っていきました。実は、かぐや姫は人びとを救うためにあらわれた富士山の神様・浅間大菩薩だったのです。
富士山頂のほら穴に籠るかぐや姫の場面
富士山だけに、ここは「木花開耶姫でいいんでないの?」と思ったりもしたですが、結局のところは浅間大神(大権現)=木花開耶姫ということのようですなあ。ところで、絶世の美女と吹き込まれた帝はかぐや姫を一目見たさのあまり富士山登頂を目論んだのであると。
帝のご無体な振る舞いのとばっちりは周囲が大変になるばかりでしょう、自らの脚で登ったとは思われず(といってそもそも創作された物語なわけですが)、輿か何かで担ぎ上げられたのでしょうかね。それでも、「途中、帝が休憩の際に置いた冠が石になり、今では冠石と呼ばれてい」たりもするそうでありますよ。
富士山の頂でかぐや姫との対面を果たした帝は、とても喜び、かぐや姫とともに暮らしたいと望みました。そして、2人で富士山の頂上、釈迦岳のほら穴へと入っていったのです。
めでたしめでたし…と言っていいのかどうか、微妙なところですけれど、この地域伝承が必ずしも地域だけにとどまっていたのだったわけでもなさそうですなあ。『浅間大菩薩縁起』、『富士縁起』(称名寺本)といった書物を引いてこんな説明もありましたですよ。
称名寺(横浜市金沢区)に伝来した中世の富士山縁起です。いずれも一部分が残るのみですが、『浅間大菩薩縁起』は、建長3年(1251)に富士山中にあった往生寺で書写されたことがわかっています。また、極楽寺(鎌倉市)の僧全海が映した『富士縁起』には、少女を追った帝が置いた冠が石になり、その場所を陵(墓)としたこと、少女は浅間大明神の名を持ち、大日如来の化身であることが記されています。
とまあ、一般理解とは異なるかぐや姫譚の残る富士南麓は、こここそが「竹取物語」の聖地であると考えられておるのでしょうなあ。それだけに市内にあるマンホールの蓋も、これこのとおりで。
同じ静岡県では三保の松原こそがが羽衣伝説の地と言われながらも全国に諸説あったりする。それと同様のことがかぐや姫にもあるということなのでありましょう。それにしても富士山の文化的創造(想像?)を促す力はやはり大変なものがあるようですな。やはり世界文化遺産であるということに「なるほどねえ」と思ったりしたものでありました。
次には順路を戻って最初の展示室、「富士に生きる」というコーナーを振り返っておくといたしましょうね。






