さすがに広見公園@静岡県富士市のふるさと村歴史ゾーンを歩き廻るお話も最終段階、近代建築に触れることになってまいります。

 

 

全体的に傾斜地にある広見公園(なにせ富士の裾野ですのでね)にあって、一番高いあたりにすっくと立ち上る三階建ての建造物、目立ちますなあ。その名も「眺峰館」と。

 

解説に「明治二十五年、吉原町の鈴木義三が料理店の玄関塔屋として建設したもの」とありますので、元々は新吉原宿の街並みの中にあったようですので、その名にみる眺望は?と思うところながら「三階からの富士山の眺めが極めてよかった」のであると。明治の頃に三階建ては他の建物から抜きんでていたわけですね。

 

古い保存建物なれば致し方無しとはいえ、残念なのは塔屋に登れないこと。そればかりか、玄関口に立って一階部分を見回すくらいしかできないようになっておりまして、この歴史ゾーンにある建物はおしなべてどれも上がりこんで見られるようにはなっておらず…。管理が大変ではありましょうが、是非に内見可能にしてほしいものです。

 

 

もひとつ、目立つ近代建築がこちらでありますね。この木造の儀洋風建造物は大正8年(1919年)の建築ということですので、大正モダンとでもいいましょうかね。地元の開業医の医院として、旧東海道沿いに建てられていたとならば、沿道を往来する人たちはこの建物を見て「お江戸は遠くなりにけり」の印象を得たのではなかろうかと思うところでありますよ。

 

 

個人的にはこの手の擬洋風建築を見ますと、なんとはなし、洋菓子(ケーキとか?)を思い浮かべてしまうのでして、外壁塗装の塗色の関係かもしれませんですねえ。ともあれ、玄関口から覗ける範囲でちら見てしおくといたしましょう。

 

 

入ってすぐに広がる待合室の左奥に、ガラス張りで診察室が見えておりますな。開放的な感じは、病気で医者にかかる際の沈んだ気持ちを緩和してくれるかもですが、他の患者を診療しているところが丸見えなのはどうであるかな…とも。外観洋風ながら待合室が畳敷きなのは、当時の日本人にはそれが馴染むものであったからでしょう。

 

もっとも、医師家族が住まったのであろう2階部分も、和室で構成されているということですので、見た目は洋風でもライフスタイルはやはり和風のままだったのでしょうなあ。それにしても、各地に残る儀洋風建築には元々医院でしたというところが多いですが、当人のライフスタイルはともかく、ハイカラな見た目こそが新しい医療を想像させたのかもしれませんですね。

 

とまあ、かようにいかにもなモダン建築を見た後に「これも大正時代の保存建物であるか?」というものに遭遇したのでありますよ。

 

 

どう見たってただの蔵であって、土蔵でない分、モダンなのかもですが、「旧独楽荘石倉」と看板にあるこの建物は説明に曰く「伊藤博邦(伊藤博文の養子)公爵が庵原郡興津町…に建てた別邸、独楽荘に併設されたもの」だということで。本来なれば、独楽荘自体にこそ保存価値があったのかもしれませんが、本体は失われてしまい、偲ぶよすがの倉だけが残ったのでもありましょう。

 

ちなみに、しばぁらく前に興津宿界隈を訪ね歩きました折、西園寺公望の別邸・坐漁荘があったり、井上馨の別邸跡あったりするのを知ったのでして、かつて興津は明治元勲の密談?の場にもなっていたようですな。

 

てなふうに、さまざまな移築保存建築物を見て回った後、ようようこの程の旅のお目当てでもあった富士山かぐや姫ミュージアム(富士市立博物館)へと歩を進めます。広見公園の片隅にありますのでね。展示の振り返りはまたじっくりと(笑)。

 


 

…と、やおら番組?(岳南富士見紀行福岡久留米西鉄往来紀行も)の途中ですが、ちとまた中央本線沿線の美術館・博物館に出かけてまいります。三連休ですので、人出の多さに接するとヘタレになるタイプですので、どこまで回れるかは定かならずも取り敢えず。二日ほどお休みを頂戴いたしまして、11/3(月)にまたお目りかかれましたら幸甚でございます。