「息子に何を望むのか」と言って、ことさらに息子に限った話ではありませんで、「娘に何を望むのか」と言ってもいいわけで。それなら「子供に…」と言うこともできるところながら、話のきっかけになる数本の映画がたまたまにもせよ、みな息子との関わりであったので取り敢えず。そんなふうに受け止めていただけますと幸いです。
先に見たドキュメンタリー映画『モリコーネ 映画が恋した音楽家』では、父親が「息子のためによかれ」という思いからトランペット奏者となることを、ある意味強いておりましたですね。そうした父親の意向があったことで、後々エンニオ・モリコーネの音楽を享受できることになったわけですが、この手の親の口出しは往々にしてあることながら、映画なども含めて後世に語り継がれるのは、結果的な成功例でもあろうかと。
ま、逆に極端な失敗例といいますか、親子関係が破綻する、目指すべきところに全く到達せず挫折するといった話は現実的(世に数多の例がありましょう、きっと)に過ぎて、話の収まりをつけにくいところがありましょうし。
ですが、親の口出しとは反対に口出ししないという相対し方もあるのですよね。映画『さかなのこ』の母親の姿を見ているとそんなふうに。
もっとも、口出ししないと言っては放りっぱなしという形もありましょうけれど、ここでの母親はひたすらに息子を肯定するという方向でありましょうかね。傍からは「どうしたって変わってるでしょ、あの子」と見える息子(映画ではのんが演じて、息子と言い切ることに意味があるかどうか…ですが)を包むありようは「ひとつの姿」でもありましょうか、同様にしていたとして、親子関係が良くなると決まった話ではありませんでしょうけれど、そのあたりが難しいところですよね。
一方、『銀河鉄道の父』はタイトルどおりに宮沢賢治と父親のお話でしたなあ。このおとうさんは、それなりに息子にどうしてほしいというはある(やっぱり家業の質屋を継いでほかったでしょう)にもせよ、どうしても息子に強いることができない。ここにも、息子に対する信頼というか、希望(自身は家業に縛られたという点も?)というか、そんなものがあったことでしょう。ですが、息子にやりたいことをやらせた結果として後世に名を遺す文筆の才を発揮するも、それに伴う生活のことごとが夭折にもつながったかと思うと、やりきれなさは残るでしょうなあ。これまた難しいものです。
最後にもひとつ、イスラエルが舞台の『旅立つ息子へ』。自閉症スペクトラムの息子に対して、キャリアも何もすべてを投げうって、献身的に尽くしてきた父親は「息子には自分がいなくては」という強い思いがあるのですよね。
さりながら、もはやいい青年となった息子には自立に向けた社会性を養うことも必要となりましょう(いつまでもいつまでも父親が世話し続けるわけにはいかないですものね)。そこで、息子が施設に入ることになるのですが、言葉にはしないものの「施設で息子がやっていけるわけがない。やはり自分が付き添っていなければ」という思いが父親を強く支配するあまり、二人揃って逃避行に及んでしまうのですな。
その子、その子にとって本当にいいことなどという絶対的なものは無いのでしょうから、かまい過ぎず、かまわな過ぎず、適度な距離感を成長とともに見直しながら、相対していくことになりましょうかね。ただ、それがやっぱり難しい。そんな当たり前のことに改めて思いを致した次第でありますよ。