なまじ梅見の期待を抱いていましたので、「まだか…」の思いの募った山梨の清白寺。残念さのあまりうっかり書き忘れたことを補足しておきませんと、国宝の寺に失礼かと思いまして、少々続きを。
撮りようによっては、咲いている然としたところを切り取れたりもする…と、そういうことはともかくも、境内の傍らに希少な種類の梅が植わっていることでも、清白寺は知られておるのだと。
…仏殿の西側には夢窓疎石が自らの手で植えたと伝えられる、伝説の梅「西湖梅(せいこばい)」が現存しています。西湖梅は、当時の南宋の首都臨安府(現浙江省杭州市)が面していた西湖付近原産の珍しい品種で、八重咲きの薄い桃色の花が咲くのが特徴です。
となれば「どれどれ」と、当然に仏殿の西側に足を運ぶことになりますな。ま、これも咲いておらないだろうなあとは思いつつも…。
案の定、花は見られなかったわけですが、この古木のあたりに来ますと、妙に花の香りが鼻をくすぐったのものですから「?!」と思うことに。見回せば、一足先に盛りを終えつつある蝋梅があるではありませんか。蝋梅って、かくも馥郁たる香りを漂わせるものだったのでしたか(モノ知らずでして)。
どうも梅と蝋梅とは(名前のわりに)全く異なる種であるようですが、取り敢えずはこちらに接して少々気分も盛り返し、余勢をかって?清白寺からほど近いところにある「連方屋敷」という史跡へと足を延ばすことに。
やおら視界が開けて、いかにも史跡然と整備された場所が見えてきますと、さらに気分は盛り上がるわけですが、わりと高く盛り土を施した上に礎石の跡が点在し…なんつう史跡を思い浮かべてしまうも、実はさにあらず。建物を設ける地面の周囲に堀と土塁が巡らされているので、土塁の中は窪地のように思えることになりますな。
で、ここがどんな場所であったのか、そのあたりは解説板に委ねることにいたしましょう。
江戸期の記録によって古来「戦国期武田氏の蔵前衆頭古屋氏との関連について推定」されているそうですけれど、「整備に伴う発掘調査では、戦国期の遺構は発見されませんでした」と。むしろ「戦国期以前の礎石建物や掘立柱建物の一部」が発見され、礎石建物付近から集中して出土したかわらけから、「15世紀前半から中頃が連方屋敷が使用された主な時期と考えられ」るとか。
江戸時代に残された記録というのも、すでになんだかわからなくなっていたものを「こうだったのだろう」と推測したのかもしれませんですね。昔のことを鵜呑みにしかねるのは難しいところかと。
ともあれ、連方屋敷が15世紀前半まで遡るものとなりますと、先に訪ねた清白寺の創建がまさに15世紀前半ですので、何か関係が?と思いますですなあ。なにせ土塁の先を眺めれば、清白寺の堂宇が望める(下の写真では左下に)。昔はもっとはっきり見通せたのではないでしょうか。
となれば、清白寺は足利尊氏の開基ですので、足利氏との関係が?!と。Wikipedeiaには「足利尊氏の姪を室とした南北朝期の甲斐守護・武田信武やその子孫の信春・信満の居館と推定して」いる説があることを紹介してありましたですよ。信武はあの武田信玄から遡って9代前のようですから、武田氏の長い歴史が偲ばれようというものです。
とまあ、束の間の歴史散歩で一汗かくくらいのお天気であったこの日、この後は早速に汗を流すべく石和温泉へと向かったものでありました。中央本線普通列車であと三駅ということで。