宮城県多賀城市に来て、取り敢えずはJR仙石線の多賀城駅からほど遠からぬ多賀城市埋蔵文化財調査センター展示室とその付属施設である史遊館とを覗いたわけですが、ここからはしばし歩いて次の目的地へ。
この日はあちこち寄ると結構な徒歩行になろうなあと、予めGoogle mapとにらめっこ(くどいですがスマホをもっていないもので…)して想像したものですから、多賀城駅隣接の観光案内所でレンタサイクルを借りようかとも考えておったのですな。
さりながら、案内所の開所時間(午前10時)前に到着してしまったこともあり、「ま、歩くか」ということにしたところ、これが結果的には歩きで正解ということに。何せGoogle mapを見ている限りでは思いもよらぬ登り坂続きであったものですから。
駅から多賀城市埋蔵文化財調査センター展示室に向かうまでの間、すでに登りであってさらにまだ登るかあ…という具合。気付いてみればたっぷり高台を歩くことになっていたのでありますよ(写真で振り返る以上に、実際の体感としては登ったなあ感がありました)。
しばらく広い道を進んだ後、住宅地の中を少々進むと「さざんかの森」というところに出ます。多賀城市の木とさざんかを約600本植えたという市民いこいの森と広々した園地がありまして、この園地の方がどうやら多賀城廃寺跡という史跡のようで。
多賀城と同時期に創建された多賀城の付属寺院跡で、多賀城跡の南東約1.2キロメートルの高崎地区にあります。東に塔、西に東面する金堂があり、その北には講堂が置かれ、中門から延びた築地塀が塔と金堂を取り囲み講堂に取り付くという伽藍(がらん)配置は、大宰府付属の観世音寺(かんぜおんじ)と共通しています。寺の名称は伝わっていませんが、山王遺跡から「観音寺」と書かれた土器が発見されており、寺名の可能性が高いと考えられています。
先に覗いた多賀城市埋蔵文化財調査センター展示室の展示に示された伽藍模型は大宰府観世音寺(右下)の配置に倣って作られた想像図でありましょう。かつては軍事拠点という役割だけで捉えられた多賀城には、こうした祈りの場も付随して設けられていたのですなあ。今では基壇部分と礎石で往時を偲ぶばかりになっておりますが。
祈りという点では、多賀城廃寺跡に直結するものではありませんが、当時の祭祀のひとつの形として「人面墨書土器」というものがあるようですな。律令時代の遺物として各地で出土しているようですけれど、多賀城跡周辺で発掘されたものは顔立ちがはっきりと残っているものが多いようで。
(人面墨書土器は)土器に顔を描いたもので、息を吹き込んで穢れを封じ込め、川や側溝に流したと考えられます。文字と組み合わさったものもあり、それらは穢れを流すだけではなく、延命を祈る儀式に使われたとも考えられています。
多賀城が創建された8世紀前半、すでに仏教は公伝から150年余り、朝廷の庇護を受けて各所に浸透していたものと思いますが、人面墨書土器によって穢れを払うといった古い祈りの形態は同時並行的に残っていたのですなあ。必ずしもその後の神道に受け継がれるでもない形の信仰があったというわけですな。