さてと、多賀城市埋蔵文化財調査センター展示室をひと巡りして、いにしえの多賀城を大づかみにしたわけですけれど、受付あたりの掲示であったか、「こちらへもどうぞ」的な案内があったものですから、どれどれを立ち寄ってみたのが埋蔵文化財調査センター体験館「多賀城史遊館」という施設。展示室の入っている文化センターの建物を裏手に抜けて、駐車場を通り越した先にありました。
博物館などでは子供向けの体験学習施設が併設されているのをよく見かけますですが、スペースの都合か、多賀城市の施設の場合、展示室とは別棟にこれが置かれているということのようですね。「多賀城市の文化財」HPによれば、「まが玉づくりや火起こしなどの体験学習を常時行うことができ」るとありますので、やはりなるほど「体験館」です。が、その一方で「多賀城市内の遺跡から出土した資料や農作業の道具を展示しており、多賀城市の歴史が概観でき」るともあり、そっちの辺りを拝見しようというわけです。
宮城県多賀城市にとっては、国特別史跡多賀城跡の存在は特別なものながら、それを他の展示施設に譲るとなりますと、歴史をたどる展示は自ずといずこでも見られるような、地域地域の郷土資料館のような感じになりますなあ。まずは、古いところで縄文時代あたりから時系列で地域の歴史と辿るというふうに。
「多賀城市に人々が住み始めたのは、約6,000年前の縄文時代前期、特別史跡多賀城内の金堀地区のようです」と紹介されておりまして、律令時代に多賀城が成立する遥か以前、人が住み始めたのがまさにその場所とは「やはりその土地こそ」という何かがあったのでしょうかね。もっとも縄文時代の人たちにとって、海に近いところというのは、山中にあって木の実の採集などに頼りよりもずっと栄養価の高い食材を手に入れることができる場であったろうと。掲示にある写真パネルは貝塚跡ということでありますよ。
「多賀城市で米作りが始まったのは、今から約2,000年前の弥生時代中期のこと」とありますので、だいたい紀元前後のことになりましょう。紀元前10世紀くらい、九州北部に伝わり、その後じわじわと日本列島を北上していったと思しき稲作が東北地方に到達するのに何百年もかかったようですな。
宮城を含む沿岸部は三陸海岸として、(特に南三陸は)リアス式海岸の代名詞になっていますので、断崖が海と接する土地柄、広い耕作地を得にくく、海産物の恵みはむしろ近い。そんなことも、稲作伝播が遅れる背景にもなったかもと思ったりしたものです。そこには縄文vs.弥生の構図も関わったかとも。
とまあ、かような前史を経て、古墳時代から奈良・平安と多賀城が機能した時代と移っていくのですが、それは別の施設の展示に譲るといたしまして、いわゆる民俗資料館的な展示室も覗いてみましょう。
入口扉に「民俗資料から見た多賀城の暮らし-昭和40年代までの農家の一年ー」とあるのが「いかにも」でして、やっぱり農機具が並んでいたりするわけですね。
ということでかなり端折ってしまった史遊館ですけれど、多賀城跡への助走としては「お時間があればどうぞ」(でなければスキップ可かと)という気も。ただ、事務室の方には「ここから先、史跡訪ね歩きのマップなどはありませんか」と尋ねて大変にお世話になったのですけれどね。もっとも、「これが仕事ですから」と結構な時間を割いてあれこれ探してくださったのですが、適当なものが見当たらず仕舞い。いろいろな意味で?まことに残念な結果となった史遊館でありましたよ。