国特別史跡・多賀城跡を目指す前段階として、まずは予備知識を蓄えるべく多賀城市埋蔵文化財調査センター展示室にやってきた次第。訪ねたときには、入口の看板にありますとおり「古代都市 多賀城」という企画展が開催中でありました(会期は2024年12月22日で、とうに終了してますが…)。

 

 

「昭和50年代から現在まで続く長年の発掘調査の成果から、多賀城を支えた古代都市の姿に迫ります」(同展フライヤー)という展示のほど、見てまいることといたしましょう。

 

 

決して大きなスペースではありませんが、遠慮がちに?「展示室」(確かに文化センターの一室ですが)という名乗りから想像するよりはミュージアムらしい設えで、しかもきれいに展示してありましたなあ。真ん中にはどんと「多賀城碑」(レプリカ)が置かれていますが、多賀城碑に関しては後ほど。

 

 

で、まずは多賀城が置かれる経過をさらりと紹介しておりますね。つまり、律令に基づく国づくりにあたって東北地方には陸奥国と出羽国が置かれるも、北方地域にはヤマト王権からは自由に暮らす蝦夷(えみし)がおり、その取り込みを図る前線基地として多賀城を置くに至ると。ですので、多賀城は陸奥国国府として東北地方統治の拠点である(出羽国の監督も行った)と同時に軍事拠点の鎮守府でもあったということになるわけで。

 

 

ところで、敵対関係にある蝦夷と相対する最前線の多賀城が一朝一夕に、しかも大規模にできたはずもないわけですな。多賀城碑の記載によって多賀城の成立は神亀元年(724年)と分かっていますけれど、それ以前にももそっと仙台寄りのあたりに前線基地は設置されていたのであると。

 

 

JR東北本線の仙台駅から南へひとつ下った長町駅に近い郡山遺跡が多賀城以前に官衙の置かれた場所とされておりまして、「7世紀頃になると…関東地方からの移民と関わる集落が形成され、国家施設である「柵」や、多賀城に先行する陸奥国府へと発展してい」ったそうな。「7世紀末頃から8世紀前葉頃には、藤原宮をモデルとした正方位の建物群」が造られ、多賀城に先立つ国府と考えられているようでありますよ(上の図が藤原宮モデルの官衙)。

 

 

これが多賀城となりますと、時期にもよりますけれど政庁の置かれた区画の南西方向に広く街区が設けられ、東西大路、南北大路、さらに水運にも利用された運河なども造成されたといいますから、なるほど「古代都市」であったのですなあ。

 

 

実のところ、多賀城跡を訪ねるといって、野っぱらに礎石の転々とあるくらいのイメージでいたのがいい意味で裏切られる結果となったようで、実見する楽しみの弥増す気がしたものでありますよ。

 

とまあ、そんなことを知るに及んだ多賀城市埋蔵文化財調査センター展示室ですけれど、埋蔵文化財調査センターというだけあって、最後にお宝系(と思しき)発掘品をひとつ。

 

 

「双龍環頭大刀柄頭(そうりゅうかんとうたちつかがしら)」。双龍ですので本来は二頭の龍が向かい合う形であったようですが、「6世紀後葉頃の特徴がみられ」ると。大刀自体、「柄頭を上にして杖のように持ち、所有者の権威を示」すことに使われていたそうですので、その柄頭に施す装飾はなおのこと偉そうに見せるためだったことでしょうね。多賀城の大路には、そんな高位官人が歩いていたりもしたのでしょうなあ。