マレー半島・クラ地峡の運河開削と水爆の話が出たから…ということとの関連性はあったわけではないのですが、『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』という映画を見たのでありますよ。タヒチ同様、仏領ポリネシアに属するムルロア環礁で、「この期に及んでまだやるんだ…」と当時思ったフランスの核実験が行われたのは1995年~96年でしたか。年代的には十分、記憶に残るところではありますけれど、ここではその話ではなくして、先の核実験から100年ほど前、文明からの脱出を図ってタヒチを目指した画家ポール・ゴーギャンを描いた映画の方でありますよ。

 

 

原題は「Gauguin - Voyage de Tahiti」ですので、「楽園」という言葉はどこにも無いわけですが、タヒチそのものが楽園であるとイメージするのは現代目線なのでしょうなあ。パリの喧騒とは打って変わって素朴さが支配しているも、それが故に生ずる数々の制約や不便さに囲まれている。だからこそ「楽園」と見る向きもありましょうが、ここで邦題が敢えて「楽園」という言葉をもってきたのは多分に逆説的な意味合いにおいてでもあろうかと思うところです。

 

上のフライヤーに見るとおり、主人公ゴーギャンを演じたのはヴァンサン・カッセルでして、個人的な印象としてはゴーギャンよりも「ゴッホであるか?」と思えてきてしまうあたり、いささか一本の映画としては鑑賞の妨げにもなったような(ま、この辺りは個人差が大きいでしょうけれど)。

 

ともあれ、タヒチに赴いたゴーギャン、結局のところ自由に絵を描く生活ができるようなるものの、その生活は困窮を極めるのですよね。身体も壊してぼろぼろの状態になりながらジャングルを経巡る中、そこで暮らす現地の人々との出会いからテフラという少女(映画ではそうは見えませんが13歳だったと)を妻に迎え、彼女をミューズとして気持ちも新たに制作に励むことになっていったと。

 

ゴーギャンのタヒチ滞在は、時を変え、場所を変えして、都度ミューズが変わりますので、テフラの存在がゴーギャンの描いたタヒチらしい(?)作品群すべての源ではないわけですけれどね。この映画で扱われるのは1891年~93年の、最初の滞在ということで。

 

ところで映画の中のエピソードとして、画材の調達にも事欠く毎日を送るゴーギャンは木彫りの像を造ったりもしていて、近所に住まう現地の若者が彫刻を真似てみるという場面が出てくるのですな。これを微笑ましく思ったゴーギャン、鑿の使い方などを教えてやったりしていたわけですが、ある時、若者の彫ったものがどれもこれも全く同じデザインであることに気付いて、「これは何だ!」てなことに。ゴーギャンとしては芸術作品の制作に向かうものと思っていたところ、若者が作っていたのは白人への土産物であったことに、怒りを露わにするゴーギャン。戸惑う若者…。

 

ゴーギャンには極貧にあっても芸術家のプライドは失わないという心づもりがあったのでしょう。さりながら、そうも言ってはいられないという場面もまた出てくるのですな。若い(幼い?)テフラを手放せなくなっていくゴーギャン、せめて彼女にはまともに食事を与えなくては…と思い、先立つものは現金になりますな。そこでゴーギャン、住まう村を離れて白人も多く闊歩している町(おそらくはパペーテ?)へと出、道端に作品を広げて露天商に及ぶという場面です。

 

通りすがる人が目を向けることもなく、試みに手をたたいて呼び込みまがいまでしてみるゴーギャン。結果的に絵が売れることはなく、木彫作品がひとつ、値切られて買われていっただけということに。タヒチの雰囲気をたたえるゴーギャンの彫刻は、今では美術館で見られる芸術作品として扱われていますけれど、おそらくは道端でお店を広げていた時に同じものが並んでいたとして、タヒチの若者が売っていた方が売れたかもしれませんですね。

 

なんとなれば、白人にとってはタヒチ現地の誰とも知らない者が作ったにせよ、いかにもなタヒチ土産にはふさわしいということで。このあたり、なんだかつい先ごろに話を聞いた民藝のことを思い出したりもしてしまいますが、ちと違うか…。

 

ともあれ、映画の話に戻せば、ここで描かれたところだけを見る限りで「ゴーギャンのタヒチ滞在はこうだったんだあね」と思っては誤るのだろうなと。何せ最初の滞在だけですし、有名作『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』の制作もまだこの後ですし。敢えてこの時期だけを取り上げた意図を掴みかねておるような次第でありますよ。