JR石巻線の渡波駅では、「渡波駅前」というバス停が文字通りに駅の真ん前(つまりは駅前ロータリー内とか)には無いということに、少々戸惑ったわけですけれど、これは考えてみれば、いずこにおいても同じ表現方法なのでしょうなあ。バス停の名称が「〇〇駅」とか「〇〇駅北口」とかいうふうに表記されていれば、駅の目の前まで乗り入れるのでしょうけれど、「〇〇駅前」という場合には駅からほど遠からぬあたりにあるバス停となりましょうか。も少し駅まで遠い距離感になると「○○駅入口」だったりするかも。ま、ニュアンスに秀でた表現が多様な日本語も、ひと言で万人共通理解を導くのは難しいことですよね。

 

と余談はともかく、バスの時間にはなんとか間に合って、石巻市街へと戻ってまいりました。降車したのは(乗車したのと同じ)立町通りのバス停でして、次なる目的地にはバス道を少々戻っていくことになります。ほどなく見えてきたのは広々とした旧北上川の河川敷でありますよ。

 

 

目の前に立つ異形の建物は石ノ森章太郎のマンガミュージアム「石ノ森萬画館」ですが、これには後ほど触れるとして、取り敢えずはこの旧北上川です。旧というからには、今では違う流路の北上川があるわけでして、現在の本流は石巻市街の手前で東へ急カーブさせられて、牡鹿半島の向こう側で太平洋に注いでいるのですな。東北随一の大きな河川ですので、河口にあたる石巻市街はおそらく、度重なる洪水に悩まされてきた結果、流路が不自然に?曲げられたのであろうかと。

 

ただ、これは流れ下ってくる水対策にはなりますが、海から遡上する津波には対抗しようもなく、ご覧のとおりに河川敷が広々としているのは2011年の震災時に大津波がさらっていってしまったからなのでしょう。石ノ森萬画館の立つ場所は、実は中洲(地元では中瀬というらしい)になっていますので、この川中島にはかつて商店なども立ち並んでいたそうながら、跡形もない状態になっておりますよ。十数年経過しても、なんとなくと言った感じで公園化が進められておるようで。

 

 

ところで、(石ノ森萬画館に先駆けて)訪ねた目的地といいますのは、萬画館の左手にぽつんと「ちいさいおうち」状態で佇む一棟の建物、旧石巻ハリストス正教会教会堂なのですな。「明治13年(1880年)に建設された、…現存する木造教会堂建築としては日本最古のもの」(石巻市HP)ということですが、昭和53年(1978年)の宮城県沖地震で被災し、現在の場所に移築・復元、さらに東日本大震災で大きな被害を受けるも復元されたという、苦難の歴史を刻んだ建物であると。

 

 

入口前や周囲にはカラーコーンが建てまわしてあるのは、周辺の公園整備との関わりでしょうか、教会堂の建物自体はすでに復元完了と思われます。無料見学可能で、中におられた受付ボランティアの方が震災時のようすなどを詳しく教えてくださったのでありますよ。この建物がある旧北上川の中洲にはかつて商店もあって…てなことは、そのときに教えてもらいました。

 

 

 

堂内にあった写真を見るだけでも被害状況は悲惨の極みですけれど、これが現前、目の当たりにあったらそれこそ言葉を失うでしょうなあ…。解説板に曰く、当時の状況はこのようであったと。

(震度6強の地震が起きた)およそ1時間弱のち最初の大きな津波が襲来しました。この津波が引いた後、第二波は、一説には、最大6~7m、時速60~70kmとも言われ、大型の船や家屋なども流されました。このような状況の中、当教会堂も二階天井付近まで浸水しましたが、窓がすぐに破れたこと、移築時に基礎を緊結していたこともあって、流されずに残りました。

ということで、周囲の公園整備はまだまだのようすながら、ぽつんと佇む教会堂、中のようすを振り返っておきましょう。

 

 

2階建ての1階は畳敷きの広間になっています。信徒の礼拝は2階で行われ、このスペースは礼拝以外の集会に利用されたとか。2階へは右手奥に見える、過激に急勾配の階段で上ります。

 

 

「手すりにつかまり、ゆっくりと…」という貼り紙の指示どおりに慎重に上った先には、今度は絨毯敷きの広いスペース。こちらが聖所、要するに祈りの場でありましたよ。

 

 

キリスト教の教会で思い浮かぶロングシートがたくさん並んだ信徒席は設けられておりませんで、信徒は立ったまま礼拝するのが正教会の流儀なのですな。モスクワ郊外にあるセルギエフ・パサドを訪ねたときにも、ガイドからそんな話がありましたっけ。もっともあちらはここのように落ち着いた雰囲気ではありませんで、壁一面にイコンが飾られ、神は偉大なり的な印象をこれ見よがしに植え付けようとしているふう。宗教にはかような側面がままあるわけですが、穏やかなな祈りの場としてはどちらがいいでしょうかね…。

 

 

ところでこの教会堂は明治13年に建てられたわけですが、それは「ロシア人宣教師ニコライが、東京に教会堂を建設した明治24年より、10年以上も前のことであ」ったそうな。東京の教会堂とはもちろん、現在は「ニコライ堂」として知られる御茶ノ水の建物ですけれど、これに先駆けること10年以上も前に石巻に正教会のお堂が建てられていたとは。

 

明治の初め、正教会の洗礼を受けた者が石巻に帰郷し、教えを広めたということが始まりで信徒が増えていき…となるようなのですが、それにしてもそう簡単に外国の宗教が根付いていくのは解しがたいような。そこで単なる思い付きとして浮かんできたのは、遥か昔に慶長遣欧使節を送り出した背景なのですな。

 

伊達政宗の思惑は交易の方にこそあったかもしれませんが、使節の目的には確かに宣教師の派遣を求めることがあったわけで、つまりは仙台藩領の中にある程度キリスト教が根付いていたのであろうと。徳川幕府がキリシタンを御法度としたことで、宣教師派遣(加えてスペイン、メキシコとの交易も)の目的を達成できずに使節は帰朝するわけですけれど、そこに一定のキリシタンは残っていたでありましょう。

 

長崎のようにとまでは言いませんが、ある種「潜伏キリシタン」のようなふうになっていったかも。信仰という形がはっきり受け継がれはしなかったかもしれませんが、人々の心の中にキリスト教への親近感が土地の記憶として残っていたりしたのであらんか…てなふうに思ったものでありましたよ。