山形県天童市の出羽桜美術館。HPによれば、天童駅から徒歩15分ということで、当初予定では天童駅近辺で昼飯を食し、ぶらぶら歩いて出向こうと思っていたのですな。ところが、思わぬめぐり合わせでもって、宿泊するホテルの方に車で天童そばの名店(?)に案内され、ついでに出羽桜美術館の前で降ろしてもらうというらくちん移動になりましたこと、すでに触れたとおりありまして。

 

さりながら、美術館からの「お戻りは?」とホテルの方に尋ねられ、「のんびり歩いて行きますよ」と応えますと、ここでまた想定外の言葉が返ってきたのですすなあ。なんとなれば、「都会の人はよく歩きますねえ」と。要するに山形(だけではもちろんないでしょうけれど)の人たちはどこへ行くにもすぐに車を出してしまうので、歩くということがあまり無いのであるとか。と、即座に同行していたホテルの方のご友人が「だから、あんたの腹は…」とたっぷりしたおなかを指さすあたり、さも掛け合い漫才の如しでありましたよ。

 

ま、想像するに…ですけれど、都市部から離れれば離れるほど小学校、中学校への通学時間が長くなるのだろうと(『世界の果ての通学路』ほどではないとしても)。ですので、運転免許が持てるようになると、「もう歩くのは嫌だ…」という思いが募るのかもしれませんですねえ。翻って、都市部ではと言われてみれば「確かに、そうそう車頼みでもないような」と思いますですね。都市部に往来の頻繁な公共交通網がありますし、下手に車を出すと渋滞していたり駐車場所に困ってしまったりしますから、そう毎度毎度、車に頼ってもおらないわけで。

 

 

という余談はともかくも、出羽桜美術館から天童駅方向へゆらゆら歩いて戻って行ったわけですけれど、その道すがら右手(東方向)には小高い丘が見えておりましたな。先のホテルの方から「舞鶴山」と伺っておりましたが、標高250m足らずのこの山にかつては天童城があったということで、戦国の世にはこの山を最上義光の軍が囲んだのであったかと思ったり。とまあ、そんな山の裾にふいと「明治の擬洋風建築であるか?」という建物が見えてきたのですなあ。当然に近寄ってみるわけです。

 

 

門柱には看板がふたつ、右側には「東村山郡役所」、左側には「天童織田の里記念館」と書かれてあります。「明治12年、東村山郡役所として建てられ、…現在は資料館として、天童織田藩関連資料や明治維新前後の資料を中心に、240点余りを展示」している、とまあそういう施設であるということで。

 

ここで「天童織田藩?!」となったといえば嘘になってしまいますな。何しろすでに天童駅に着いたときから「天童織田藩めん街道」なんつう看板を目にしていたのですから。そうはいっても、没落後の織田家は(関東者としては畿内にいたことはほとんど知らず)上野国は小幡藩の藩主となっていたことを、群馬県甘楽町の国指定名勝「楽山園」を訪ねたときに知ったわけですが、「では、天童との関わりや如何に?」とはなろうかと。おそらく展示を見れば、そのあたりがすっきり分かることになろうと、左手にある入口から中へと進んだとありますよ。

 

 

あいにくと館内は撮影不可でしたので文字情報に頼ることになりますけれど、館内配付の資料『天童織田藩の成立』を見返すとこんな経緯になりますな。

  • 天正十年(1582年)、信長が本能寺の変で非業の死を遂げ、長男信忠も死亡したことで、次男信雄が宗家を継ぐ。
  • 信雄は尾張・伊勢・伊賀百万石の領主となったが、豊臣秀吉と抗争し、結局五万石(大和国三万石、上野国二万石)になった。
  • 信雄の嫡男信良が信雄から上野国(現在は群馬県)甘楽・多胡・碓氷三郡、二万石が与えられ、小幡織田藩の藩主となり、宗家を継いだ。
  • 以降、信昌・信久・信就・信右・信富・信邦が藩主となり、およそ150年間甘楽郡などを支配した。
  • 明和四年(1767年)山県大弐事件によって八代信邦は蟄居を命ぜられ、養子信浮(信邦の弟)が九代藩主となり、出羽国(現在の山形県)高畠に移封された。
  • 高畠織田藩(二万石)では郡内の領地替えにより、治める便利さや紅花生産などの経済面の有利さを考えて、十代(信雄から数えて)信美は天童に城を移すことを幕府に願い出、文政十一年(1828年)に許可された。
  • 天童城郭(御陣屋)が完成したことで、家臣たちは高畠から次々移り、藩主信美も天保二年(1831年)八月十五日入部した。織田信長の直系にあたる天童織田藩が誕生した。

いささかざっくりしすぎな気もしないではありませんが、まあ、それは取り敢えず、かの織田信長の系譜は流れ流れて東北の地で明治まで命脈を保ったということになりますか。ただ、二万石というのはなかなかに藩財政が苦しい石高であって、特産の紅花に頼ったようすも窺えるところですなあ。

 

そんな天童織田藩のことを語るにあたって、展示でクローズアップされていたのは幕末期の家老・吉田大八(映画監督ではありません)であるようで。戊辰戦争が吉田の運命を大きく翻弄することになったようでありますよ。

 

戊辰戦争と東北ということでは、朝敵として討伐対象になってしまった会津藩を巡って新政府軍と対立、奥羽越列藩同盟が結ばれて…という展開が思い浮かぶところながら、同盟結成の前夜、当初は新政府側が仙台に送った奥羽鎮撫総督の命に服す形であったようですな。会津藩討伐はもとよりですが、時に山形地域の天領を幕府から預地とされたことで域内の年貢米を酒田に収めた(兵糧米でしょうな)庄内藩を不届きとした新政府軍、これを攻めることにしますが、そこで奥羽鎮撫使先導の役割が天童藩に降って来たのであると。

 

まあ、山形のことですから、その先鋒のおはちが山形の藩に回ってくるのはあることとしても、石高二万石の小さな所帯が庄内藩の矢面に立たされるのは想定外だったでしょうなあ。さりながら、織田家を「先祖以来格別ノ家柄ニ付キ」とおだてあげて大役を命じたそうでありますよ。

 

ですが、藩主は病弱、後継ぎは若年とあって、奥羽鎮撫使先導名代を務めたのが家老の吉田大八守隆であったと。薩長とともに庄内藩との戦闘に及んだ吉田ですが、庄内藩では「吉田は奥羽を戦争に巻き込んだ張本人」と檄文を出す。奥羽越列藩同盟が成立に至ると天童藩も加盟し、吉田一人が悪者扱いされるところとなりまして、いっときは潜伏するも自ら米沢藩に名乗り出て、切腹して果てた…ということで。そも奥羽鎮撫使先導を引き受けておらなければ、新政府軍に攻められていたであろう天童藩を救ったのは吉田でもありましょうに…。

 

今では、天童藩御陣屋のあった舞鶴山の山頂に吉田大八の像が建てられ、顕彰されているということのようですなあ。時に、結構くたびれてきておりましたので、山上の銅像を目の当たりすることはいたしませんでしたが、ともあれ、天童織田の里記念館の展示でもって、中央の歴史では語られないひと幕を知ることになったのでありますよ。