さて、群馬・藤岡の山あいにある温泉宿に一泊した後のことになりますが、
山並みをひとつ北側に越したあたりは甘楽町となりまして、

ここにはかつて小幡藩二万石の城下町があったようなのですね。


そこに国指定名勝「楽山園」があるというので、立ち寄ってみたのでありますよ。
どうやら整備されてさほどでもないせいか、妙に新しいふう。
整備後のオープンは2012年だったそうですな。


国指定名勝「楽山園」入口

もちろん名勝というからには「楽山園」は庭園であるのでして、

隣接してお殿さまの住まった御殿があったはず。
そのようすは例えばこんなふうに解説されていたりしておりました。




で、この御殿に隣接して造園された大名庭園が「楽山園」というわけでして、
この中門を隔てた向こう側に広がっているのですね。


庭園へはこちらから

冬の寒いとあって、まさに寒々しい感じ。何しろ池には氷が張り詰めておりましたけれど、
庭園のようすを一望するとこのような具合です。





と、ところでこの「楽山園」を造った大名とは誰であるか。これが意外な人物でして。
よもやこんなところに出てくる?という感じではなかろうかと。


織田信雄之像

実はこの人、織田信雄。織田信長の二男ですなあ。
本能寺の変の後、織田の跡目を継ぐことができずにどうなったもんだか…と思っていましたら、
尾張・伊賀・南伊勢100万石をやるから大人しくしていろと(言われたかどうか)。


秀吉が小田原北条氏を征伐したときに、この100万石の領地から
東海五か国(家康を関東に移した跡地でしょうか)へ移るよう求められるも、信雄は拒否。
怒った秀吉に旧領没収の上、下野国烏山に流罪とされ、出家してしまうことになったようで。


その後、家康のとりなしで赦免はされるも、関ケ原では西軍に付いたと見られてまた改易。
それでも大阪の陣で豊臣側から情報を流す間者であったとも言われる働き?から
大和国宇陀郡三万石と上野国甘楽郡二万石を与えられて大名に復帰。
その甘楽郡の領地で息子・信良の系統が小幡藩主を継いでいくのですなあ。


「楽山園」を造ったのは信雄ですし、
「養蚕などの産業育成にも力を注いだ」と解説にはありましたけれど、
どうも信雄自身は関東があまり気に入らなかったのかもしれませんですね。


まあ、それもそのはずでかつて流罪にされた場所と
さして遠からぬところのように思えたのではとも想像してしまうところです。


戦国時代を生き抜いた武将としてはどうもぱっとしないように思える織田信雄。
さりながら、現在に至る織田の系譜はもっぱら信雄に負うところのようですから、
これも生き残る術だったのでありましょうかね。


小藩・小幡藩は織田家が出羽国へ転封した後、奥平松平家が藩主として明治まで残りますが、
藩財政は一貫して借金に苦しめられていたのだとか。先の解説にもありましたように
信雄が育成に努めた頃の養蚕 はまだまだ細々としたものだったのでしょう。


あいにくと世界遺産絡みでは甘楽町の観光には恩恵が無く、
こんにゃく パークがそこそこの賑わいを見せているくらいでしょうか。
それだけに、城下町・小幡が大いに売り出し中の印象を受けたのもむべなるかな。
町中を貫いて清冽な水を流している雄川堰などはまた訪ねてみたいところではありましたですよ。