群馬・藤岡の温泉に出かけて 行って、いかに両親の足元不如意とはいえ、
観光要素が皆無ということでもありませんで。
わりと宿から距離的に近い山里に、世界遺産(の構成要素)があったものですから、
立ち寄ってみたという次第でございます。
「世界遺産 富岡製糸場と絹産業遺産群」は4つの構成要素から成るも、
富岡製糸場ばかりが脚光を浴びているような状況ではありますまいか。
今回訪ねたのは藤岡市の山あいにある「高山社跡」でありました。
でもって、まずは「高山社跡」そのものを訪ねる前に、
近くにある高山社情報館に立ち寄って予備知識を得ておこうということに。
世界遺産登録後にガイダンス施設としてできたのでしょう、
まだ新しいようですけれど、展示室はこのような感じです。
この手の施設には一応概略がさくっと分かる類いのビデオ上映があったりしますが、
ここではそれが無い代わりに係の方が手作りの画集を手に紙芝居的な感じで
はや分かり解説を施してくれるのですなあ。
それによりますと、生糸の利用は元来日本でもあったことながら、
もっぱら中国からの輸入頼みであったと。
一方、ヨーロッパはヨーロッパでフランスを中心に独自の生糸利用があったようですね。
日本でも国産化の試みは細々と続けれられたわけですが幕末に至り、
1855年頃にフランスの生糸産業が蚕の病気で壊滅的な状況になると
外国商人は中国に調達の道を求めるも、太平天国の乱などによって荒廃して叶わず。
日本に目が向けられるようになったとは、あたかも景徳鎮に代わる有田焼
のようですな。
とまれ、明治維新となって生糸が大いなる輸出産品となることに気付いた政府は
殖産興業の旗頭として養蚕業に大きく期待をすることになり、日本からの輸出が
ばんばん増えていった…というわけですが、はて高山社の関わりは?と。
より生産性の高い蚕の飼育法が求められる中、「清温育」なる飼育法を編み出したのが
当地、高山村の名主であった高山長五郎であったそうな。
明治元年(1868年)に着想を得て、およそ17年をかけて確立された飼育法であるとか。
幕末までには「温暖育」という蚕室を温めて生育を促す方法があり、
この方法で繭の収穫までの期間がかなり短縮できたものの、
蚕を全滅させてしまうこともあったというリスクが伴った方法だったようで。
これに代わって「清涼育」という換気をよくして育てる方法をとり、
「ああ、養蚕農家だったのだな」と分かる建物として、
屋根上に小屋根がいくつか乗っているのを見かけることがありますけれど、
この換気口が着いた屋根を付けたのが伊勢崎の田島弥平であったとか。
旧田島弥平宅は高山社と同様に世界遺産の構成要素になってますですね。
で、この「温暖育」と「清涼育」のいいとこどりをしたのが「清温育」。
ですが、いいとこどりの方法を確立するのに何年も掛かっているのですから、
高山長五郎も大変だったことでしょう。
しかしまあ、苦労の甲斐あって「清温育」は認められるところとなり、
高山社という会社組織を作って近在農家の経済的安定を目指す一方で、
やがて「清温育」の普及を図るために学校まで起こしてしまったのですなあ。
効果的な飼育法が全国に広まることで、生糸の輸出需要を満たしていったのでありましょう。
と、そんな具合に飼育法に改良が加えられていったと同時に
こんな「繭オスメス鑑別器」なる機械も発明されたりもしたのだとか。
継続的に養蚕を行うには一定程度のオスとメスをストックしておかなければなりませんものね。
(蛇足ながら、この発明は高山長五郎によるものではありませんですが)
四角い皿のひとつひとつに繭を載せ、手前のハンドルを廻ると皿の部分が回転する。
もしも繭の中にメスがいれば写真の左側の器に繭が落ち、オスだったら奥側の器に落ちる…
というのが、ハンドルを回すだけで出来てしまうというのですなあ。
なんでも繭の中のメスが卵を何百個か抱えている分、オスよりも重いという、
その重さの違いで落ちる器に違いが出るようになっているのだそうな。
レトロな機械ながら何という優れもの!と、試みにハンドルを回す体験をしながら思ったところが、
あまり普及したわけでもないようで。なんとなれば、ヒヨコの雌雄を見分けるように?
蚕を見てぱっぱとより分ける蚕体識別が主流になると、速さで優れたわけでもなし、
また繭によってはオスでも大きめのがメスにより分けられてしまうなど
精度の点でも劣っていたようで。
とまあ、高山社情報館での見聞ですっかり話が長くなってしまったものですから、
本当の「高山社跡」への探訪は次の機会ということで。




