予て見たいと思っていた銀座単館上映の映画が新宿でも始まったので、

買物に出かけたついでに見て来たのですね。

「世界の果ての通学路」というドキュメンタリーでありました。


映画「世界の果ての通学路」


小学校への通学。

東京であれば、大方は近所の子供たちが集まって、年長の6年生あたりが班長になり

下級生を引き連れて集団登校する。

集合場所から学校までは、かかっても20分くらいでしょうか。

(最近は子供が少なくなって学校の統廃合があったりしたので、もそっとかかるところもあるかも)


ですが、この映画で取り上げられた4組の子供たちの登下校は、

日本の小学生にとってみれば「毎日が遠足か?!」というもの。

一例として挙げれば、ケニアに住む彼ら(フライヤーの一番上)の通学路は

片道15kmなのですから。


そして、遠足ならば基本的にお楽しみ要素が混じるものでしょうけれど、

彼らが踏破する15kmはアフリカのサバンナ。


野生動物が普通にそこここにいる中で(特にゾウには気をつけないといけないらしい)、

サファリパーク のようにこちら側は車の中で守られているということもなく、

生身の子供たちが駆け抜けていくのは、日々是命懸けなわけです。

(15kmの道のりを2時間でとなれば、踏破というより走破ですが)


そうした状況にあって彼らが学校に通い続けるのは何故だろうかということを

嫌でも考えてしまうことになろうかと思うところでありますね。


親からは「ちゃんと学んできなさい」と送りだされる。

ですが本人にその気がなれけば、途中で一日うだうだしていて

「学校へ行ってきた」と夕方戻れば、当座は誰にも分かりそうもない。


そうであっても、彼らが野生動物がうろうろする中を毎日毎日通い続けるのは、

学校に行って学ぶことの意味を自分なりにしっかりと捉まえているということではないかと。

それが確かなものであればあるほど、彼らの夢、学ぶことを先に思い描いていることは

現実へと確実に近付くように思えます。


翻って、日本ではどうか。

映画の彼らは小学生ですけれど、日本では大学への進学率が5割とも言われる中、

どれくらいの大学生が彼らほどの「学ぶことの意義」を自分のものとしていましょうか。


環境が違うことは間違いないですけれど、それで片づけて終わりにしていい話とは思われない。

単純に高校卒業者の5割が本当に大学に行きたい(もちろん学ぶことを目的としてです)と

心の底から思っているか、何のために大学に行くのかを考えた上であるのかどうか。


例えを大学にしてしまったのはちと飛躍だったかもですが、

同じようなことは高校に上がるとき、また中学に上がるときにも言えることでしょうね。


それぞれの段階で、「皆が行くから」とか、「何となく」とかいうフィーリングで進学していって、

たどりつくところは「自分探し」(ちなみに個人的にはこの言葉が嫌いです)だったりするという。


だからと言って、日本でも彼らのような通学経験をさせればいいてなことを言いたいのでなくして、

また必ずしも「彼らのようでなくてはダメだ」と言いたいのでもなくして、

日本の私たちが忘れてしまったことを彼らは気付かせてくれる、思い出させてくれる…

そんな気がするのでありますよ。


そして、気付いたこと、思い出したことにじっくりと思いを巡らせてみると、

社会のありようにまで考えが及ぶことになるのではないかなと思ったのでありました。