さてと、いささか長居した川べりの淀川資料館から、京街道枚方宿の旧道方面へと戻ってきたのですね。今では三矢公園という児童遊園になっている本陣跡のところで高台見物、淀川見物と左右に行ったり来たりしましたが、その地点からさらに街道筋を大阪方向へと向かいます。
相変わらず通りに沿っていかにも昔ながらの商家といった佇まいの建物が現れますが、それも時折…であることは先にも触れましたとおり。ともあれ、しばし進みますと、かような湾曲に遭遇するのでして、宿場町にも敢えて通行を不便にする桝形が造られたりしますが、「これも桝形か?」と。
枚方宿の大坂方面の出入り口である西見附はまだも少し先なのですけれど、ここは素直に道なりに。角を曲がり切るまで気付きませんでしたが、この角に建つのが浄土真宗のお寺さんで浄念寺であると。お寺さんの前では何やら教訓のような言葉を記した掲示を見かけることがありますな。浄念寺門前には「済んだことと他人は変えられないが、これからと自分は変えられる」という有難い教えが。
ま、教えのほどはともかく(としてはいけんかもですが)、これまた山門脇にある解説板に曰く、枚方と浄土真宗は関わりが深いようでして、枚方には寺内町が設けられていたということで。
仏教絡みの話は詳しくないところながら、先年の大河ドラマ『どうする家康』で若き日の徳川家康が手を焼いたのが三河一向一揆を思い出したりも。一向宗門徒の方は寺内町を要塞化して家康軍に徹底抗戦していたようすが浮かんできたりするのですが、何ごとも無ければ平穏な町の姿だったのでありましょうかね。
枚方と浄土真宗の出会いは、戦国時代の順興寺建立に遡ります。永禄2年(1559)に、蓮如第27子の実従がここに入寺し、一家衆(いっけしゅう・本願寺宗主の一族)寺院として栄えます。実従は『私心記』という日記を残しており、枚方に住む人々の様子をいきいきと描いています。これによると、順興寺を中心に蔵谷・上町・下町などの町場が形成され、油屋、塩屋、味噌屋等の屋号を持った商人等、多くの人々が住んでいたことがわかります。このような真宗寺院を中心とした集落を寺内町といいます。
当初、寺内町は台地の上にあったそうでして、本願寺勢力の低下(信長との争いの関係でしょうか)とともに衰退した寺内町は、やがて淀川べりに枚方宿が設けられると町の機能は宿場の方へ統合されたということです。で、浄念寺を通り過ぎ、現在の淀川堤の直下(といっても、車通りの多い道を一本隔てた向こうですが)を伝う細道に沿って、問屋浜跡、船番所跡などの表示が続く野ですな。
とまあ、そんなふうにしてふらりふらりとしているうちに、枚方宿も大坂方の宿はずれ、西見附に到達と相成ります。宿場歩きはここまでですけれど、おしまいにはちょいとばかり戻って市立枚方宿鍵屋資料館を覗いて、総まとめということに。ここも、さほど期待すること無しに立ち寄ったところが、結構訪ね甲斐のあるところだったのでして、次にはその鍵屋のお話になってまいります。