さてと、しばし滞在した伏見を離れ、京阪電車で(これまでうろうろした淀駅や石清水八幡宮駅を過ぎ去り)枚方市駅へとやってきました。枚方は、京と大坂を結ぶ京街道(大坂街道とも)で伏見宿の次にあたる宿場町ということで、駅構内の片隅にはこんな看板もあったりします(メインの出入り口でないので気付く方も少ないようですが)。
町の北側には、もはや大河の風貌を湛える淀川が流れ、これに沿って京街道は大阪まで。淀川舟運とともに陸上移動の京街道は往来が多くあって、往時の枚方宿はさぞ賑わっていたのではないかと思うところです。というのも、2年前(2022年)の9月に淀川対岸の高槻を訪ねた折に比べ、枚方市駅に降り立った時の第一印象は賑わいの点でいささか劣っておるような…というものだったわけでして。
川向うには昔から西国街道が通って、今の高槻そのものではないかもしれませんが、芥川宿があったわけですが、向こうは京・大坂を直接結ぶでなし、そりゃひと通りも京街道、枚方宿の方が優っていたであろうにと思ったものですから。この点では、明治になって京都と大阪を結ぶ鉄道路線として東海道本線が西国街道沿いのルートを採ったことが大きく関係しているのではなかろうかとも。ちなみに、東海道本線の高槻駅開業は1876年、京阪の枚方市駅(開業当時は枚方東口駅)開業は1910年ですので、大きな違いは無いようにも見えますが、川向うの東海道線はそのまま東京にまでつながっているのですしね。
そんなあたりが運命の分かれ道だったかもしれませんけれど、得てして静かな推移を辿ったところの方が昔のよすがを残していたりもするもので、上の地図にある「枚方宿・歴史街道散策コース」あたりをうろうろとしてみようかと。
徳川幕府は、17世紀初頭から全国的に街道整備・宿駅設置を進め、東海道の延長として伏見・淀・枚方・守口の4宿を設けました。
枚方宿は、東見附から西見附まで797間(約1.5㎞)、問屋場・本陣のほか旅籠や商家など多くの町家が軒を連ねて宿場町としての賑わいを見せました。
…また、枚方は淀川水運の中継港で米や河内木綿、菜種など物資の集散地であったため、在郷町としても繁栄し人と物が行き交う水陸交通の要衝として重要な役割を果たしました。
先ほどの個人的想像はともかくとして、解説板から改めて枚方宿の紹介を拾っておくとこんなことでして。やっぱりねえ…という印象ですけれど、果たして現在の枚方やいかに。どうやらここが旧道の入り口のようです。
世に宿場町であったことを観光資源としている町はたくさんありますけれど、中山道の奈良井宿や妻籠宿、馬籠宿などのように山中ならばいざ知らず、都市化しているところでは「宿場町らしさ」を標榜するのは難しいことでありましょうねえ。現代の道路に比べればはるかに狭い道そのものが名残といえば名残ですけれど、取り囲む建物などはすっかり今のものに変っておりますし。それでも、ところどころにわずかな痕跡を見出すような形でしょうかね。
大きなビルと昔ながらの町家のコントラスト。これが今の枚方宿でありますねえ。
と、この「妙見宮常夜灯石灯籠」などは建てられた時代背景を物語るようなものでもあるようです。
…柱裏側には「嘉永七甲寅年」(一八五四)と刻まれております。嘉永七年は開国の年であり、京都・大坂間の往来が増え、社会不安が高まる中、奉納した開運講の人達が天下泰平と枚方宿内の安全を、能勢妙見宮に祈願したものと思われます。
さぞ、勤王の志士を騙る無頼の輩なども枚方宿を通って、京・大坂を往来したことでしょう。町の人たちは「ぶっそうでかなわん」とばかり常夜灯を設けたということで。ところで、石灯籠の右側に小さな石柱がありまして、「←枚方宿本陣跡」と道標になっているわけですが、どうにも小さくて遠慮がちな感じですな。この「枚方宿高札場跡」を示す道標など、よほど近づかないと判読できませんでしたですよ。
とまあ、そんなことをぶ~たれつつも、旧道をそぞろ歩き。時折現れる古い町家の建物には気分も上がったりしますけれどね。
「くらわんかギャラリー」と看板の出ているこの建物は「享保年間から続いている塩熊商店」の旧小野邸を一般公開している…ということでしたが、閉まっておりました…。ともあれ、ほどなく到着したのは本陣跡。今はただ解説板が設置されているばかりで、三矢公園という子供の遊び場になっているようで。
枚方宿本陣は三矢村の当地に建っており、池尻善兵衛家が代々経営していました。…参勤交代の大名が宿泊するときは、たいそうな物々しさであり、ことに御三家である紀州藩の大名行列は有名で、近郷近在から見物に来る人も多かったそうです。のちに八代将軍となる徳川吉宗も、紀州藩主時代にここ枚方を通りました。慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって幕府の影響力は衰えます。すかさず3月に、明治新政府は天皇親政をアピールするため、明治天皇の大坂行幸を企てます。そのとき枚方宿本陣は、天皇の休息所にあてられました。
なるほど、それで公園の入り口に「明治天皇御晝餐所(ごちゅうさんしょ)」と書かれた石柱があったのでしたか。それにしても、幕末明治で反徳川方をやたら持ち上げる雰囲気にいやぁなものを感じる者(といって徳川贔屓でもありませんが)としては解説板にあった「明治新政府は…大坂行幸を企てます」という表現、好きですなあ(笑)。
とまれ、この本陣跡までのところで枚方宿・歴史街道散策コースは道半ばなのですが、ここでちと街道筋を外れた方向に向かってみたのですな。さてはて、わざわざ寄り道する甲斐はあったのかどうか。そのあたりを次に振り返ってまいりますよ。