東京・八王子の帝京大学総合博物館を訪ねたというだけでまたまた話が長くなっておりますが、マリアナ諸島関係の展示スペースを通り抜けた先でまた別のミニ企画展というのが開催されていたものでして。題して『海の向こうの日本(ジパング) 欧文史料に記録された中近世の日本』とは、やはりついつい釣り込まれてしまったのですよねえ…。

 

 

ちょいと前に読んだクアトロ・ラガッツィ』という分厚い一冊は、天正遣欧少年使節をメインテーマとしつつも、キリシタンと戦国大名の関わりやらスペインの世界帝国構想やら、何とも広範な歴史の一端をカバーしておりましたな。一冊の書物にまとめるには相当な海外史料にもあたったものと思うわけですが、そこで気付かされたのは中近世の日本のことを記した海外文献が思いのほかたくさんあるのであるなあということなのでありますよ。それこそバチカンの図書館などに。そんな思いでおりましただけに、このミニ展示にも食い付いてしまったわけです。

 

鉄砲伝来として知られるポルトガル人の種子島漂着(1543年、他説あり)に始まる日欧交渉は、先の展示で見たようにマゼランがマリアナ諸島を「発見」するのとさほど時が離れていない時期でもあり、ひょんな誤解(マリアナ諸島は意思疎通の不都合から「泥棒諸島」と呼ばれてしまいました)から植民地化されてもおかしくないご時勢であったろうかと。さりながら、ヨーロッパに「発見」された日本はどうも未開の野蛮人の地とは受け取られなかったようで、またマルコ・ポーロが「ジパング」として語り伝えたことが興味を惹いたか、日本への関心は高かったのでしょう。特に海外布教を進めるイエズズ会にとっては、モノの分かる人間が住んでいる土地ならば布教の成果をあげられようと伝道意欲を高める宣教師たちがいたようで。

 

そんな中、見るもの聞くもの珍しい日本を、宣教師たちはヨーロッパへ伝えるわけでして、『日本史』を残したルイス・フロイスは有名どころとしても、その他にもたくさんの人が手紙に書いて送ったりすることになったことから、その当時のヨーロッパから来た者の感覚でその当時の日本を語り伝える文書というのは彼の地にはたくさん眠っているのですよね。それに研究資料として目を向けた始まりは、結局のところ明治期のお雇い外国人にあったとは…やっぱりあれこれ、いろんなことを日本は教わったのですなあ。

歴史の研究には、その当時の人びとが書き残した史料が必要です。日欧交渉史研究の場合、日本側の史料だけではなく、ヨーロッパの古文書館や修道院に収蔵されている「海外史料」も不可欠となります。なぜなら、日本側の史料には見られない事柄が、海外史料にはたくさん記されていることが多いからです。そうした海外史料の利用の必要性を唱えたのは、いわゆる「お雇い外国人」として招聘されたルートヴィッヒ・リース Ludwig Riess(1861~1928)です。リースは東京帝国大学の歴史学講座にて「海外史料」に基づく日欧交渉史研究の重要性を提唱し、この提言をきっかけに、ヨーロッパ各地に埋もれている日本関係海外史料の発掘と収集が本格的に行われることになりました。

日本のことは国内文書を読み解けば…とは言うものの、いずれの時代にもお上への配慮なんつうことがあって、必ずしも書きたいように書けないといったことがままあったでしょうから、海外史料によってその隙間を埋めることもできるわけで。ただ、戦国時代から江戸期にかけてたくさんの宣教師がやってきて文書を残したにもせよ、時は明治になったといっても当初は相変わらずキリスト教禁教の状態で、宣教師の文書を調べるなんつうことも憚られたのではなかろうかと思うところで出てくるのが岩倉施設団でありますねえ。

岩倉具視を正使とする使節団一行は不平等条約改正交渉のために、欧米諸国を訪れたのですが、明治政府が相変わらず「キリスト教=邪教」という、江戸幕府以来の方針を受け継いでキリスト教信仰を認めず、あまつさえ「浦上四番崩れ」で捕縛された信者たちを流罪に処し、配流先での拷問や私刑を黙認したため、条約改正交渉はことごとく失敗に終わり、岩倉たちは条約問題については見るべき成果もなく帰国せざるを得なかったわけです。

こんなことから「信教の自由」を考えなくてはならなくなったことと、研究上の必要性の時期とは時期がうまくかみ合ったということになりましょうか。ともあれ、かくて始まった海外史料に基づく日欧交渉史研究、展示ケースには復刻版とはいえ、カトリック教会に伝わる数々の文書が収められておりましたですよ。

 

 

 

下側のケースに収められた巻物状に長い文書の上の方、こちらは長崎で信徒発見に遭遇したプティジャン神父が信徒たち宛てた書簡であるそうな。この時に手紙の宛名人になっていた信徒たちは、上で触れた「浦上四番崩れ」で配流となり、全国の諸藩に預けられていたわけですが、その数およそ3400人。でもって、彼らには拷問・私刑お構いなし状態であったとならば、神父からの手紙は信徒たちにとって僅かながらも光明と思えたことでありましょう。また、当時の明治政府の側にしてみれば、こうした手紙が残ること自体、ありがたいことでは無かったでしょうねえ…。

 

ともあれ、歴史を見る目は一面的では理解を誤るということが、考えられるようになってせいぜい150年ですか。つい先日、新聞広告で見たACジャパン(公共広告機構)の2024年度全国キャンペーン「決めつけ刑事(デカ)」のことが頭に浮かんでしまいましたなあ。容疑者に対して、どこの誰とも知れない人が書いたSNSを示し、「お前がやったんだろ!知らない人がつぶやいてるだよ!」と自白を強要する刑事のキャッチフレーズが「誰のどんな投稿も、全てを鵜呑みにして追い込んで行く。決めつけ刑事(デカ)」とは。一面的なものの見方や思い込みは、歴史を考えるのみならず、ともすると日常でも思わぬ見誤りの元になってしまうのでもあるか…てなことを考えたものでありましたよ。