京阪電車の中書島駅を挟んで右往左往。前日には伏見稲荷大社に出向いてから(中書島を通り越し)石清水八幡宮へ。次の日には宇治平等院へ行ったのちに(これまた中書島を通り越し)淀城跡へ…てな具合でしたですが、ここではまた淀城跡から中書島駅に帰り着き、伏見の町のお話ということになりまして。

 

駅から北へバス通りを少々歩きますと、先日乗った伏見十石舟が通う水路を跨いで京橋という橋に出くわすのですな。橋のたもとには「伏見口の戦い激戦地跡」と記した石柱が立っておりましたよ。

 

…幕末の慶応4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸、ここ伏見御堂を宿陣として戦いました。伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、この辺りの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けました。

傍らにはこうした説明が書かれてありましたけれど、こんなことからも伏見が京と大坂を結ぶ水上の大動脈だったことが窺えますですね。今では水辺に近いくつろぎの空間になってますが…。

 

ところで、上の説明に「(会津藩では)ここ伏見御堂を宿陣として」とあるのですが、「ここ」というわりには京橋から伏見御堂までは少々離れておりますな。ま、今の地図で歩いて6分くらいではありますが、会津藩士が舟を下りてぞろぞろと移動したのでもありましょう。

 

 

こちらが現在の伏見御堂でして、その名よりも先に「会津藩駐屯地跡」として知られておるような。傍らの説明には、開戦時のようすがより詳しく出ておりました。

(会津藩先鋒隊が伏見に上陸した)翌3日、薩摩藩との間で小競り合いをしている最中の午後4時頃、鳥羽方面から聞こえる一発の銃声に触発され、御香宮の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が火を噴き、伏見奉行所を攻撃したことから伏見の町でも戦いが始まりました。

確か大河ドラマ『八重の桜』ではなかったかと思いますが、鳥羽伏見の戦いを描いて町なかで会津軍と対峙する薩摩軍がやおら大砲を引き出してきてぶっぱなつ…てなシーンがあったような。実際は異なって高台に据えた大砲で狙い撃ちしたと聞けば、得心が行くような。で、薩摩藩の陣取った高台というのが、御香宮の東の高台であると。なるほど、伏見御堂から東へ御香宮へは京阪の線路、近鉄の線路を越えてゆるゆるとした登り坂になっておりましたよ。大砲の威力は高いところから撃ち下ろす方が効果的ですものね。

 

 

ということで御香宮までたどり着いてみれば、境内の片隅にはやっぱり「明治維新 伏見の戦跡」てな石碑が建てられておりましたな。

 

 

 

説明には、薩摩の大山弥之助(後の大山巌)が大砲を撃ちかけ、これに土方歳三が応戦し…てなことが書かれてありますが、これの結末部分にはかような一文がありまして。

…官軍も一時苦戦に陥ったが、錦の御旗に志気を盛り返し、幕軍を淀から更に橋本に撃退し、遂に幕軍は大阪に敗走した。かくて明治維新の大業はこの一戦に決せられたのである。即ち我国が近代国家に進むか進まぬかは一に繋ってこの一戦にあったのである。この意味において鳥羽伏見の戦いは我が国史上、否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。

いやはや…こてこての薩長史観とでも言ったらいいですかねえ…。これが明治の中頃に書かれたものならばさもありなんですが、昭和も半ばを過ぎた頃とは。まあ、これを書いたのが写真にも見えているとおりに(当時の)内閣総理大臣佐藤栄作(ほんとに当人が原稿を書いたのでもないでしょうが…)となりますと、結局のところ長州閥につながってくるわけで、やれやれ…と思ったりしましたですよ。

 

今言っても全く詮無い話ですけれど、伏見の町(ばかりでなありませんが)を、民衆を戦火に巻き込まずに事を進めることはできなかったのでしょうかね…。しばし後には江戸城無血開城なんつうことも行われていたりするのですし。ただひたすらに「偉業なのである」と言ってしまうことには違和感以上のものを感じた次第でありますよ。

 

てなことで「うむむ…」感が昂じたところで、御香宮そのもののお話はまた時を改めてということにいたしたく。