ということで都知事選のことはともかくもまた淡々と普段の日常に復していくわけですが、京阪淀駅のほど近く、淀城跡を訪ねてみたというお話でありまして。鉄道の高架に沿って大阪方面へ少々、草の繁茂する中へと歩を進めてまいりますと、早速にそれらしい石垣が見えてきました。

 

 

取り敢えず、石垣の上まで登れば見晴らしがよかろうと上がってみれば、これがどうやら立入禁止のようす。まあ、来る人もまれで、整備や補修もほどほどなのかもしれません。きっと石垣の際に立つと危ないけんねという予防策なのかも。

 

 

とはいえ解説板の類はいろいろと立っておりまして、「四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣」が聳えていたという淀城の往時を伝えてくれるのですな。

 

 

 

それにしても、位置としては桂川、宇治川、木津川の三川合流がまさに淀城を取り囲んでなっており、現在の合流地は結構下流に設けられたことも分かります。ですが、今や石垣に沿ってふらりと歩き廻るのがせいぜいといったところですなあ。

 

 

 

ちなみに「淀城址」石碑の揮毫は享保年間以降幕末に至るまで淀藩主を務めた稲葉家末裔の方が書かれたようで。藩主としては稲葉家がもっとも長く治めたわけですが、もそっと前の寛永年間に淀に入った永井尚政の時代、時の文化人のサークル活動のようなものがあったようで。濠が残るところまで出てきますと、こんな(手作り感あふれる)看板が立っておりました。

 


山城の国 淀藩主永井尚政の指示で家老佐川田喜六らに水車を作らせ宇治川より城内に水を引き入れるようにした。仲間として「石川丈山」、「松花堂昭乗」、「小堀遠州」、「本阿弥光悦」などがいた。佐川田喜六は一休和尚を慕い晩年は一休寺のそばに庵を結び生涯を終えたそうだ。

 

顔ぶれから想像すれば、サークルは茶の湯仲間ということになりましょうかね。それにしても宇治川の水で茶の湯とは思ったり。ですが、現在の宇治川は京都競馬場の向こうを流れて淀城跡からは必ずしも近くありませんですね。むしろ、今では桂川の方が近くを流れているようで。

 

淀城跡公園をあっけなく通り抜けてしまった後、考えて見れば淀川の三川合流にこだわっていたわりには、未だ桂川とは対面を果たしておらなかったことに気付くわけでして、近いとなればやはり桂川の川面をひとめなりとも拝んで行こうと考えた次第でありますよ。特段、展望台があるわけでも、ビューポイントがあるわけでもないのですけれど、幸い淀駅からさほど遠からず宮前橋という橋が架かっているようで、そこまで行けば見晴らせるであろうと算段した次第です。

 

 

 

 

両方の岸ともども深い木立が連なって、これがために「さくらであい館」の展望塔からも川面を望むことができなかったのですなあ。まあ、ここで桂川を眺めてどうということもないのですが、これで少しばかり気が晴れたように思えたものでありましたよ。

 


 

相変わらず月一回、父親の通院介助に出向いているところでして、このところしばらくは日帰りで対応しておりましたが、今回はちと泊りがけということに。だもんですから、明日(7/10)はお休みを頂戴し、明後日(7/11)にまたお目にかかりたく存じております。どうぞよしなに。