さて、京都(の外れ)の石清水八幡宮に赴いて、先に伏見稲荷大社稲荷山をひと巡りしたことでもあり、いささかのこだわりを持って参拝には表参道を登り詰めてと考えていたのですなあ。一ノ鳥居からしばし平坦な道を進むと、右に裏参道を分けたところで二ノ鳥居をくぐることになりますけれど、その先はひたすらに登りになるようでして。

 

 

ちと見分けにくいとは思いますが、境内の「石清水八幡宮案内絵図」のよりますれば、下の真ん中にある二ノ鳥居から上の真ん中にある三ノ鳥居までは長い長い石段登り。まあ、男山への山登りでもありますからねえ。とはいえ、早々に出てくる九十九折にはひと汗ふた汗かくこと必至かと。

 

 

さりながら、上の案内絵図を予めよく吟味することもなく歩き始めてしまい、また登り坂続きに足元ばかりに気を取られ、とにかく石段を登り詰めて…とばかり思い込んでおりましたので、いつしか表参道を外れてしまっていたようなのですなあ。まだまだ続く石段に当初は間違えたという意識は全くありませんで…。

 

 

だんだんと山懐深く入り込んだ感が出てきて「もしかして間違えた…」と思った頃に、境内案内の解説板にひとつ、出くわしたのでありますよ。今では木立の中に平らにならした狭い平地があるばかりですが、曰く「東谷 泉坊跡」と。

 

今から400年前の江戸時代初期、「寛永の三筆」の一人で、当代一の文化人であった僧侶・松花堂昭乗が、この坊で晩年を過ごしました。昭乗は石清水社の隣の「瀧本坊」の住職でしたが、引退したのち泉坊に庵を建て、「松花堂」と名付けました。

解説に目を通して「そうであったか…」と思い出したのはNHKの『えぇとこ』で石清水八幡宮界隈を訪ねた放送回なのでして(本来は関西向けの番組なのでしょうけれど、2024年の番組改編以前は関東でもたまに放送されていたのですねえ。BSに入っていないので今はもう見られなくなってしまいましたが…)。

 

いわゆる松花堂弁当の元々はこの松花堂由来であるいうことで、八幡市内にある京都吉兆松花堂店では元祖?松花堂弁当が食せるということであったなあと。いつぞや石清水八幡宮に出かけることがあれば立ち寄ってみようかいね、てなふうに番組を見た当初は思ったですが、すっかり失念しており、安直にも流れ橋カレーを昼飯にしてしまった…。もっとも、番組では八幡市の宇治茶(なぜかこの名称…)栽培も取り上げられていましたが、上津屋流れ橋あたりをぶらぶらしてもちいとも番組を思い出すこともなく…。

 

とまあ、記憶力の悪さを披歴しても何にもなりませんので(苦笑)石段をさらに先へ進むとして、やがて山あいにあるだけに苔むしたふうのお社に行き当たったのでありますよ。ここが先の解説板でも触れられていた石清水社のようで。

 

 

すぐ向かいにはやはり解説にあった瀧本坊の跡があるも、これまた今では木立の間にぽっかり空いた空間といったふうでありましたなあ。

 

 

明治になって神仏分離が進められるまで、「石清水八幡宮寺」と呼ばれてきただけに「山腹には『男山四十八坊』といわれた僧房が所狭しと建てられ」ていたのであるとか。泉坊跡も瀧本坊跡も破却された結果かと思いますが、そうした跡地がそこここにあるのが男山なのでありましょう。

 

ところで石清水社ですけれど、お社としては八幡宮の摂社ということながら「石清水井」という大事な霊泉を守っておるのでしょうなあ。なにしろ石清水八幡宮自体の名前の由来に関わるわけですし。

 

…水脈は石清水井のある処に留まって、寒い冬にも、厳しい干ばつの際にも枯れることがなかったため、神聖な泉と人々に長い間尊ばれてきました。歴代の天皇や将軍は、この泉から汲んだ霊水を御本社に献供してきたと伝えられ、今でもこの水が神事に使われています。

こうしたあたりを途中途中で目にしながら石段を登り詰め、平坦な道に出た…というところで、たったたどって来たのが「中参道」とやらであったことが判明、「やっぱりな」とは思いましたですが、表参道にいささかのこだわりなどと言いつつ、このていたらくはあだや仁和寺の法師を笑ってもおられませんなあ。

 

 

この平坦な道が表参道を登った結果たどりつく場所に横入りするような形で合流しますと、左手遠くに三ノ鳥居が見えており、残念無念さも一入。そのあまりに三ノ鳥居方向の写真を撮り忘れてしまいましたので、無念感と伝える術となく…。ですが、気を取り直して三ノ鳥居と反対方向、すなわち右手に御本社のある方を見てみれば、これはまたこれで「あらら?!」と。

 

 

南総門を足場が囲い尽くして「平成・令和の大修造事業実施中」とあることからして、よもやこの先も工事中であるかという後ろ向きな予測が湧きたってきたのでありますが、長くなりましたのでお話はさらに続くということで。