錦江湾(鹿児島湾)をフェリーなんきゅうで渡り、薩摩半島側の指宿で一泊…というところまで進んでまいりました。で、指宿という温泉地へ出かけたなればおそらく、誰しも体験するのが砂蒸し温泉でしょうなあ。

 

と言いながら、これをやって来なかった…となりますと、そのデトックス効果?を体感されたことのある方からは「なんともったいない…」てな囁きが聞こえてきそうではありますが、どうにも妙に頑ななこだわりがあったものでして。砂蒸し温泉を体験できる宿はいくつかあるようですけれど、どうせなら海岸、本当の砂浜でやりたいというこだわりが。結果的に夕刻遅めに到着した翌日にと目論んでいたものが、朝からしっかりと雨が降っており…。また来る機会もあるさ、てなもので。

 

つうことで、取り敢えずは屋内施設で見て回れるところとして立ち寄ったのが薩摩伝承館なのでありましたよ。「ここに来れば、薩摩がわかる―」とまで自己紹介するHPを見て、いささか眉に唾を付けつつ立ち寄ったものの、まずはその大きな造りの建物に「おお!」と。ま、単なる思い付きながら、埼玉県秩父の山間、国民宿舎両神荘のお隣にあった埼玉県山西省友好記念館、愛称「神怡館(しんいかん)」という建物を思い出したりも。余談ながら廃墟化必至?とも思われた「神怡館」が今では、その広さを活かして屋内ボルダリング施設になっているとは、なかなかに斬新な発想の再活用ですなあ。

 

とまあ、そんな大きな建物の外観は雨降りでしたので写真に残っておらず、同館HPででもご覧いただくこととして、取り敢えず中へ。「薩摩がわかる」といって、その展示の多くは大きなものから小さなものまで(ヤンマーディーゼルみたいですが)薩摩焼の数々が並んでいるのでありましたよ。

 

 

とはいえ、薩摩焼と聞いて実はピンと来るところが無かったもので、薩摩焼協同組合HPを参照しつつ「薩摩焼とは?」を見ておこうかと。まずもって、「薩摩焼は、白薩摩と黒薩摩に大別されます」ということで。

白薩摩は、薩摩藩の保護管理の下で生産され、表面に貫入と言われる細かいヒビが入っているのが特徴で、ややベージュ色のかかった生地に金彩・錦手など豪華で繊細な上絵付けが施されています。明治時代にはパリ万博などで好評を博し「SATSUMA」の名称で世界的な輸出品として生産が拡大しました。
黒薩摩は、庶民の生活の器として主に用いられました。 黒・茶・緑など多様な色彩と素朴で剛健な趣は、人々の生活に溶け込み親しまれています。 焼酎専用の酒器、黒茶家(くろじょか)などが有名です。

ですので、伝承館の入り口を飾る大きな作品は白薩摩ということになりますな。ただ、人気を得たからこそでもありましょうけれど、薩摩焼風の絵付けをした作品というのが各所で作られるようになったようで、上に見えている作品でも、実は奥側に並んでいるのが本来の薩摩焼であって、手前側に並ぶのは薩摩焼風の絵付けを模して、京都で焼かれたものであるとか。「京薩摩」と呼ばれるものでして、京の雅を反映してか?より上品な絵柄であるようでありますよ。

 

と、ここまで来てふと思い出すのは、岐阜県多治見市の美濃焼ミュージアムで見た企画展「没後100年 成瀬誠志とその周辺」でして。企画展会場は写真不可でしたので、美濃焼ミュージアムを見て回ったことを振り返る際にはほとんどスルーしてしまったですが、この成瀬誠志という陶芸家は「東京薩摩」と呼ばれる作品づくりをしていたのでありました。

 

 

成瀬作品もまた明治期の一大輸出品目になっていたということですので、こうなってきますと薩摩焼(らしきもの)は日本のあちこちで作られ、いずれも輸出品として有難がられたとなりましょうか。海外から注目されたのは、要するに薩摩焼風の華やかな絵柄なのかもです。そもそもの薩摩焼はもそっと素朴だったようですけれど、1867年のパリ万博開催にあたり、幕府の向こうを張って薩摩藩も独自ブースを構えた折ですか、予て欧米の人たちから派手さを求められたのに応えて華やかな絵付けのものを出品したところ大好評。そこで、薩摩焼風の絵付けというのが広まったようですなあ。

 

ただ、各地で模倣される「〇〇薩摩」なるものは、今で言えば偽ブランド商品ではないかと思ったかどうか、薩摩は薩摩でにぎにぎしさの追求はこんなきんきらしたものを生みだしたりするのですよね。

 

 

うしろの壁面がきんきらし過ぎてすっかり光が飛んだふうになってますが、「薩摩金襴手」と呼ばれる作品群になります。展示解説にはこんなことが紹介されておりました。

西欧での豊かな需要を求めてより大きく、より華やかに姿をかえた薩摩金襴手は、西欧の美意識に応えた焼物となり、西欧では大建築を豪華にかざる室内装飾品として迎られました。

とまあ、かように館内展示で最も目を引くのは薩摩焼なのですけれど、「薩摩がわかる」という薩摩伝承館ですので、歴史に関わる展示もあったりするのですよね。その中からこちらの解説を見ておきましょうか。

 

 

鎖国していた日本にあって南の海に面した鹿児島は頻繁に出没するようになった外国船対応として「1840年以降、防備の要となる場所に砲台が設置され」るわけですが、それにしても数が多い。薩摩半島の南西部には砲台が軒を連ねた状態ですな。まあ、当初攘夷を叫んでおればこそですけれど、薩英戦争以降、薩摩藩は急速に西洋と接近していって、先の薩摩焼の輸出でも大儲けするとなる流れを辿ると、いささか「なんだかな…」の思い無きにしもあらず。

 

地域ごとにものの見方に差異があるのは当然でもありますけれど、歴史の見方にもお国柄が如実に表れるのだなあと。具体的にどこがどうとは言いませんが、なるほど薩摩なりの見方をすると、こんなふうな感じなんですなあ…と、他の解説パネルも見ながら思ったものでありますよ(ちと、うむむ…)。