やたらに瀬戸蔵ミュージアムの見聞話が長くなっておりますが、これまで見て来たのがワンフロア分なのですなあ。上のフロアは「3F 瀬戸焼の歩み」とありますように「瀬戸千年のやきもの史」をたどる展示があるということで、そそくさと階上へ。

 

 

ちなみに、瀬戸市の複合施設である「瀬戸蔵」の中にミュージアムはあるのでして、ミュージアムの入り口自体が2階になっていますので、3階へ上がってさらに1階の展示が残っている…というわけではありませんので、ご安心を(笑)。

 

 

ともあれ、広いスペースにずらりと並んだやきものの展示物には「おお!」と。基本的に編年展示になっていますけれど、これを年代順にひとつひとつ追っかけていては、またいつ終わるとも知れぬ話になってしまいますので、ちと掻い摘んで振り返ることに。

 

なにしろ、瀬戸が陶都であるかどうかにかかわらず、全国各地で縄文土器、弥生土器が出土するように、ここでもそもそもの語り起こしにはその辺りにも触れているわけで。考古学的なところに興味がないではありませんが、「瀬戸でやきものの生産が開始されたのは、10世紀後半、平安時代中期です」とありますので、その辺から。

 

 

古来、古墳時代の頃から須恵器生産に携わったとされる「猿投窯」が周辺に拡散する(後に猿投自体は廃窯)中で瀬戸のやきものの歴史が始まる、展示に「それは猿投(さなげ)から始まった」とあるとおりですね。参考までに(この展示解説の紹介に曰く)日本六古窯に数えられる窯の中では最も古いようです。

猿投窯では、8世紀中ごろの意図的に自然釉が掛かるようにした原始灰釉陶器の段階を経て、9世紀には日本で初めて植物の灰を釉薬とした灰釉陶器の生産が本格化します。…灰釉陶器は、白色緻密なこの地域特有の良質な陶土を高火度で焼き上げた硬質陶器で、東海地方の特産品として全国各地にもたらされました。

灰釉陶器の実作例としては、上の展示室の写真、右手前のガラスケースの中に見ることができますけれど、13世紀ごろの瓶子や水注は考古的遺物としか思えないですなあ。ですが、この時期のものを「古瀬戸」と称すからには独自性あるものなのでありましょう。こののち、「瀬戸窯は国産唯一の施釉陶器生産地として歩みはじめ」ると。鎌倉時代のことだそうです。

 

時代を経るとともに、「灰釉に加え鉄釉を施」したり、「印花文(スタンプ)・貼花文(貼りつけ)・画花文(ヘラ描き)等の文様を多く用い」たりと、装飾面で創意工夫がされていくのですな。そんな展開の中、一時にもせよ、瀬戸から窯が消える?ということがあったようで。

 

 

時は16世紀後半から17世紀初めの頃、「美濃窯にのみ窯がみられ、瀬戸窯を含む尾張国域にはこれまでのところ(窯は)知られていません」という状態になったのであると。例によって諸説あるのでしょうけれど、美濃を手中に収めた織田信長の関わりがありそうな。展示解説にはこのように。

織田信長の窯業招致策や、当時最大の陶磁器消費地であった近江・京・大坂と瀬戸・美濃地域とを近しく結ぶ中山道寄りであった美濃窯の地理的優位性がその立地に作用したものと思われます。

「瀬戸山離散」とも呼ばれる時代、一方の美濃窯では茶道具に数々の創意工夫を凝らして桃山陶が大きな花を開かせたわけですが、このあたりのことは多治見土岐市で見て来たとおりでありましょう。ところで瀬戸は?…ですけれど、江戸幕府が開かれて後、尾張藩主となった徳川義直が尾張域内の窯業振興を図った頃から瀬戸の窯も再開されるようになっていったようでして。

 

ちょいと前に聴いたやきもの講座で、肥前佐賀の鍋島家では幕府その他の献上物に当てるため膨大な量のやきものを作っていた…という話があったですが、尾張徳川家としても地場の特産品として瀬戸の「陶器染付」を特別視したようでもありますよ。

 

 

てなことで、ざっくりすぎるほどざっくりと近世までの瀬戸のやきもの史を振り返ってまいりました。この後はさらに近代以降の展開があるわけですが、それはまた次の機会に…。

 


 

誠に中途半端なタイミングながら、ちと1週間ほどお休みを頂戴いたします。またまたロングドライブとなる車旅便乗の声掛かりがあったものですのでね。おそらくは3/24(日)にまたお目にかかれるものと思っておりますが、少々無沙汰をいたします。ではでは。