毎年2月になって発売される雑誌『文藝春秋』3月号には、直前に発表された芥川賞受賞作が全文掲載されますですねえ…と言って、買ったことないですが

…(笑)。芥川賞、そして直木賞も文藝春秋社が主宰しているわけで、その受賞作が『文藝春秋』に掲載されるのは不思議でもなんでもないところながら、「文藝」と言いつつこの雑誌、いわゆる文芸誌ではありませんですね。

 

かつて「大人のコロコロコミック」などという言われようがあったように、要するに総合雑誌と言ったらよいのかと。にもかかわらず「文藝」の看板。これはいったい?と長らくうっすらと思っていたわけですが、これを氷解させる一冊が登場しておりましたよ。まあ、文藝春秋創立100周年記念とあっては、いささか提灯担ぎの気がしないでもありませんが…。

 

 

近隣図書館の新入荷図書紹介コーナーで見かけた門井慶喜の『文豪、社長になる』という一冊ですけれど、作家菊池寛の半生をたどりつつ、菊池が興す文藝春秋の成り立ちと紆余曲折、加えて芥川賞・直木賞の創設経緯なども「そうだったんだね」となるお話となっておりますよ。

 

ただ、菊池寛をして文豪と呼ぶには少々違和感無しとも言えず…。かかる出版社の創業当時は『真珠夫人』の新聞連載など、爆発的な人気を誇った人気作家であったようですけれど、かといって「文豪」とは。この言葉をいささか重く見過ぎなのかもしれませんですが。

 

で、その文豪さんが「社長になる!」と言われれば、流行作家は出版社社長としても辣腕をふるって…なんつうふうに想像してしまうものの、しかしてその実態は??ですなあ。100年前(1923年・大正12年)の当時は新進作家が同人誌ばかりに頼るのでなくして、商業的な発表の場が無いことを憂えて、菊池が私財を投げうって出版事業を立ち上げたことから、必然的に社長に収まるわけですね。川端康成や横光利一など、新感覚派とも呼ばれた若手作家が恩恵を受けたことは確かにあったようですけれど、その経営、というより社長業はといえば、「おやおや…」といったものであったようで。

 

なにしろ社長室には立派な将棋盤がでんと据えられ、菊池を訪ねてきては一局指して返っていくような来訪者多数、果ては室内に卓球台まで置かれていたのであるそうな。極めて個人的な印象になりますが、菊池寛の肖像(実はすぐさま浮かぶものはないのですが)がどうにもフランキー堺にかぶってしまうところがありまして、そこに上に引いたようなエピソードに接しますと、昭和の喜劇映画、駅前シリーズや社長シリーズを思い浮かべたりしてしまうところなのですなあ。

 

と、そんな個人的思い巡らしはともかくも、初期の雑誌作りに携わった直木三十五はせっせとゴシップ記事を書いては、草創期の『文藝春秋』の売り上げに貢献すると同時に大いに批判されたそうでありますよ。対処に困った菊池社長が「率直に言おう、直木。君の書くものは痛しかゆしだ。雑誌の品位のためにはやめてほしいが、売り上げのためにはつづけてほしい」と苦言ともつかぬ苦言を呈するも、反ってこれを激励と受け取った?直木は、それまでにも増して舌鋒ならぬ筆鋒鋭くゴシップを書き続けていったとか。

  • 芥川龍之介  学殖96 腕力0 未来97
  • 南部修太郎  学殖0 人気6 性欲88
  • 宇野千代  学殖32 度胸88 性欲86 未来10

これは大正13年(1924年)の11月号に掲載された「文壇諸家価値調査表」なるものの一部でして、当時の有名無名を含めた総勢68人の作家たちを独自の評価項目で成績を付けるという企画。他にも有島武郎や泉鏡花、谷崎潤一郎なども取り上げられたと言いますから、さぞかし物議を醸したことでありましょう。なんとなく「当たってる?」と思える部分もあるように思えるところが、当時の同社には大受けしたのでしょうけれどね。それにしても、昨今の「文春砲」の淵源とも思われるものが、草創期の『文藝春秋』本誌に、しかも直木三十五によって書かれていたとは…ですなあ。

 

とまあ、こんな社史が掘り起こされるとは「文藝春秋創立100周年記念作品」が提灯担ぎかと思ったところを薄めるような気もしましたが、要するに今で言う「自虐ネタ」でもあるかと思ったり。「文春、したたかなり」というべきなのかもしれませんですねえ。