東京でも数少ない大衆演劇の芝居小屋が立川にあるものですから、(怖いもの見たさで?)試しに出かけてみたのはもう5~6年前になりますか。例によってブログ内検索をすると、2018年5月であったようでコロナ前のことですな。おそらくはコロナ禍の期間を通じて、存続の危機などにも立たされたのでは…と想像しますけれど、どうやら生き延びているようで。この1月公演で先に見たのと同じ劇団が出演していると誘い掛けがあったものですから、先日またしても見てきてしまったのでありまして。

 

芝居小屋のみならず、劇団そのものも苦難を強いられた数年でしたでしょうけれど、そんなことはおくびにも出さず、演じる側も見る側も以前と変わらぬようす。相変わらず福沢先生複数枚というおひねり(といって、紙に包んで舞台へ投げ込むのでなしに、花道で待ち受けて役者の襟元にクリップでとめたり…)の大盤振る舞いが見られましたですよ。ただ、それでもコロナ前よりは減ったような。世知辛いというべきか…。

 

全部が全部ではないにせよ、劇団の構成員が家族ぐるみといいますか、一族郎党集ってといいますか、そんなようすでもありましたので、5~6年を経て同じ劇団を見ると、以前は子供子供していたのがすっかりまあ大人になって…ということもある。おそらく入れ込んだ劇団を追っかけたりする方々には、このあたりの変遷にも親近感が湧いたりするのですかね。それこそ知り合いの家族に会って「また来年(の公演で)ね」といった感覚があったりするのかも、です。

 

ともあれ、現今の大衆演劇の基本線として歌と踊りのパートと芝居のパートとがあるようでして、会場が大いに沸く(おひねりもたっぷり)のは前者なのですけれど、個人的な関心は後者の方に。かつては日本じゅうに広く知れ渡っていた、もちろん子供でも知っていたような時代劇の主人公たち(博徒ものが多いような気がしますが)の話を、今知るには大衆演劇しかないという具合でもありますしね。以前見たときの演目は切られの与三とお富さんの話。ま、これは歌舞伎でも演じられるところではありますが。で、今回の芝居はといえば、何と!「木枯し紋次郎」であると。

 

お富さんやら沓掛時次郎やら清水次郎長やらに比べますと、いささか歴史の浅い主人公ですけれど、そうは言っても笹沢左保の原作小説が初めて世に出たのが1971年となれば、すでに半世紀以上は経っているわけで、もしかすると認知のされ具合は他の往古の時代劇とさして変わらないのかも。それでも、口にくわえた長楊枝、そして「あっしには関わりのねえこって…」という決まり文句は多くの人の印象に残っているでしょうか。

 

原作発表の翌1972年の年頭からドラマがスタートし、同年6月には映画版が劇場公開されたというくらいに人気を博した紋次郎、ひたすらにドラマ版を通じて得た印象のみですけれど、それまでの時代劇とは大きく異なる世界を現出していたのが、時代感覚にマッチしていたのかもしれません。ハードボイルド時代劇とでもいうような。

 

今回の芝居(おそらくは劇団オリジナルストーリーかも)では、長楊枝と例のセリフで紋次郎感を出しておりましたが、やはり大衆演劇らしさを横溢させるためにも「義理と人情」路線がいささか濃かったようで。とはいえ、「あっしには関わりのねえ…」という部分との折り合いをつけるところは、結構うまく処理していたような気はしますけれど、紋次郎が木枯らしと言われる所以(一家離散の後、面倒を見てくれた渡世人の呼び名を引き継いだ形と)は独自説ということになりましょうか。長楊枝をふっと飛ばすにあたり、前もって吸い込む息が木枯らしを思わせるところから付いた…というのが通説のようですけれどね。

 

とまあ、個人的にはTVドラマ版を通じて印象の形づくられた木枯し紋次郎ですけれど、映画版で入った方には「紋次郎といえば菅原文太でしょう」ともなるようですので、これまで一度も見たことのなかった映画版『木枯し紋次郎』をこの際ですので見てみることにしたのでありますよ。

 

 

ではありますが、一見して「うむむ…」と思ってしまうことに。確かに原作のハードボイルド風味を出す努力は感じられるところながら、ドラマ版の中村敦夫がすでにして(半年ほど先行して始まっていたのですな)ドライである以上に虚無感のオーラを漂わせた紋次郎像を作っていて、それが成功要因のひとつでしょうし、またドラマのオープニングに歌われる主題歌『だれかが風の中で』が時代劇らしからぬものでありながら、「これまでの時代劇ドラマとは違うんだよ」宣言を高らかに歌い上げているようでもあり。この主題歌の裏で流されるオープニング・カットも斬新さを見せていたような。

 

これには「東映ヤクザ路線を支えたスタッフが映画化」(Wikipedia)という作品も太刀打ちしにくいところがあったのでしょう。ドラマで印象的なナレーションを添えた芥川隆行が映画版にも起用されていてなお、要するに語りの内容がすでにドラマの方が決定版のようにもなっており…。東映の制作陣も分が悪いとは思わなかったのでありましょうかね。文太あにいは(中村のニヒリズムを意識したのか)極力抑えた演技に終始しているわけですが、そもそも視点が定まっていないような中村紋次郎の虚無には太刀打ちできなかったのでありましょう。

 

てなことで、ひとつの話が映画にもドラマにもなることはままあるところながら、これほど(といってあくまで個人的な思いのほどが反映しておりますが)ドラマの方に分がよかった作品も少ないのではなかろうかと思ったりしたものなのでありました。ま、大衆演劇版はそれはそれで面白かったですけれどね。