先に俵万智の最新歌集『アボカドの種』に目を通したところで、和歌繋がりとでも申しますか、かねて読もうと思っていた一冊を手にとった次第。高樹のぶ子『小説小野小町 百夜』ですけれど、小野小町についてはしばらく前に「能」由来の興味から別の小説を読んだりしておりましたので、少し間を開けて…などと思っているうちに取り紛れてしまうそうに。さりながら、大河ドラマで平安朝が扱われ始めた折も折(といって『光る君へ』は初回しか見てませんが…)、小野小町再びということにいたしたようなわけでして。

 

 

タイトルの「百夜」が、いわゆる深草少将との「百夜通い伝説」から来ていることは言わずもがなであるも、伝説そのものも、それにまつわって晩年に落魄する小町の姿も、「能」の小町もので作り上げられてきたものであって、本当のところの出自も含めて、小野小町は分からないことだらけ。それだけに古来、創作者の想像を刺激してやまないところがあるのでしょうなあ。

 

以前読んだ三枝和子『小説小野小町「吉子の恋」』では、歌詠みの名手として、いわば職業歌人ともいえるように「次はどんな歌がリリースされるのであるか」と注目される存在であることが強く感じられたような。それだけに「歌合わせ」でのバトル・シーンも数多描かれていたわけですが、本書の方はまたずいぶんと趣きが異なっておりましたですね。

 

平安朝の雰囲気作りといいましょうか、それをそも語り口によっても表そうとするあたり、作者あとがきでもこんなふうに語られておりましたですよ。

…本作も、独特な雅文で綴りましたが、文章の調子を優先させるあまり、尊敬語や謙譲語、丁寧語などの作法に多々落ち度があるかと思います。流れるように声にして読んで頂けるなら、それで良し、と考えました。

「独特な雅文」、「流れるように声にして読んで…」との意図は、なんとはなし、大河ドラマのナレーションのありようを思わせたりするところでもありましたが、誰目線の語り?てなふうな想像を巡らしてみたり。昨年の大河ドラマでは最後の最後に、「ああ、この人であるか…」というようなネタばらし(なのかな?)があったりしましたので、ついつい。ま、小説としてはいわゆる「神さま目線」なのでしょうけれどね。

 

ともあれ、歌合わせの場で並みいる詠み手の鼻を明かすような才気走った姿でなくして、幼くして別れた母への思慕(出生には諸説あるも、出羽国の出として父・小野篁により京に呼び寄せられる)、小町に懸想した仁明帝の文遣いとして現れた良岑宗貞(後の僧正遍昭)への恋情、そうしたことで常に一抹の暗い翳を宿したようすが浮かび上がってくるのですな。小町の歌、宗貞(遍昭)の歌それぞれを応答するものとして、よくまあ、物語を作り出したものだと思ったものでありますよ。

 

物語を作り出すという点では、有名な「百夜通い伝説」を思わせるタイトルが付けられているだけに当然に何かしらの形で語られるわけで、それが「このようになるか…」とは作者の想像力が大きく羽ばたいたからこその結果なのでしょう。出自・経歴などがあまりよく分からない人物なればこそできる技ですなあ。といって、百夜通い伝説自体が創作された伝説なのですから、それに擬えた話が入っていなくてはならないわけもないのですが。

 

で、この「百夜通いをこのように…」と言った部分ですが、どのように物語を作ったのか、ネタバレしては本書の読み甲斐がなくなりましょうから、この際触れずにおきましょうね。それとは別に、読後の印象として思うことがひとつ。小町はもとより登場人物たち(男女を問わず)はなんとまあ、ことごとに袖を濡らす(要するに涙する)ひとたちばかりであろうかと。

 

いわゆる雅な王朝世界と思しき平安朝のイメージに沿うのでもありましょうけれど、そのあたりに疑義を呈するように『光る君へ』では脚本家の曰く「セックス・アンド・バイオレンスを描きたい」となるのかも。ま、ドラマの方は(初回だけ見てあとは)おそらく年末だかの「総集編」待ちのつもりですけれど…(笑)。