2024年、年始早々の企画ものでしょう、新聞夕刊に【俵万智さん×川添愛さん新春対談】が4回続きで掲載されておりましたなあ。方や短歌という小さな枠組みの中で言葉を紡ぐ歌人、方や言語学の専門家という二人の対談は「自分の言葉と時代の言葉」というタイトル付けで展開されたのでして。

 

そんな中、やりとりされたことのひとつに「日本語は曖昧なのであるか?」「日本語は論理的ではないのか?」といったあたりがありました。思うに(といって、記事を読んだところに影響はされているものと思いますが)、論理的ということには「発する言葉が明確に相手に伝わること」が意識されているのでもあろうかと。ここに含まれるストレートさが、日本語そのものというよりもその使い手の側にとって好まれない風潮が、とりわけ昨今際立ってきているような気がするのですよね。いかにすればストレートさを出さずにすむか。といって、変化球、くせだまを繰り出すという意図ではないわけですが。

 

このあたりの裏には、SNSの拡大による書き言葉の多用も関わっているように思うところです。なんとなれば、話し言葉として使う場合はその場で意味の取り違えを正せる可能性があるところながら、書き言葉として発したところを取り違えられて、しかも拡散されたとなれば、それこそ取返しがつかないわけで。できるだけできるだけ、そうはならないような表現が日々模索されてもいようかと。かく言う当人もまた、どうにも「オブラートで包んだような」言い回しを多く使っているなあとは常々。もっとも、そうした風潮が平然と話し言葉の世界にまで入り込んできていることには「おや?」と思わざるを得ないところでありますが。

 

そうした近頃の話し言葉の、卑近な例として「買い物とか、行く?」というのが出てきておりましたなあ。そもそも行くのは買い物としか考えていないのに…。このあたりは、世代によって使用頻度、それ以前に使用する、しないは分かれるのかもしれませんですね。

 

ともあれ、風潮は風潮として昨今のそういう要素をも「AI」が学習するということになりましょうか。おそらくは取り違えを含むようなニュアンスを、AIが認知するのかどうかは分かりませんですが、表面的な使用例をどんどん蓄積して、「これが日本語の文章です」といった具合に吐き出すのかも。考えなくても、文章を作り出してくれることは便利といえば便利ですけれど、そうした機能を使えば短歌などあっという間に何十首、何百首と生成されるのであるとか。で、これに触れて対談に引き合いに出されていたのが、俵万智の最新歌集『アボカドの種』にある次の一首でありましたよ。

作品は副産物と思うまで詠むとは心掘り当てること

AIが作り出した短歌は正しく「産物」であるわけですが、人が詠むとき、作品は結果としての副産物であって、その過程で(ここでは)「心を掘り当てること」こそが人としての営為であると。その点は、全くもってAIとは異なるところでありましょう。と、そんな流れで(すっかりこれまでのところとは違う話となりますが)『アボカドの種』を読んでみることにしたのでありますよ。

 

 

第一印象としては、全くもって(これまでのところとは違う話になると申したとおり)年月の経たことをしみじみと感じたのですなあ。俵万智も歳をとったなと。つまりは自らもまた、なのですけれどね。第一歌集『サラダ記念日』で鮮烈デビュー?を飾ったのが1987年ですので、あれから40年近く経つのですものねえ。

 

子供のこと、自らの病気のこと、老いた親のこと…が、作者の日常風景となっているのでしょう。フレッシュな野菜を持ったサラダは完熟のアボカドになったのであるかと。もっとも、タイトルはアボカドの種であって、芽だしの難しさといいますか、時間のかかるところが比喩として用いられて、必ずしも完熟どうのの話ではないですけれどね。

 

この間、歌人としての熟成を進めて今回の第七歌集の刊行に至ったものと思いますが、読み手の側(といって『サラダ記念日』以外読んで無いです…)にはとにもかくにも俵万智は『サラダ記念日』なのであったかと、思い至った次第でありますよ。先に挙げた一首のように、言葉の紡ぎ手としては普遍的なことを言いつつも、現今の時代背景が感じられる作品もあるわけですが、なにくれとなく懐かしがることの多かりき年まわりとなったということかもです…。