短歌の作品集、いわゆる「歌集」なるものを手に取ったのはひと月半くらい前でしたか。いっとき盛り上がるにせよ、興味はどんどん移り行くものですから、杉﨑恒夫『パン屋のパンセ』と岡本真帆『水上バス浅草行き』の2冊を読んだところで、「短歌はまたそのうちに」ということに落ち着いていき…。
さりながら、その2冊の歌集を手にするそもそもにきっかけとなりました東京新聞の『一首ものがたり」欄の8月1日掲載分で、かような一首に遭遇してしまいまして…。
観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
結句にある「一生」の部分はどうやら「ひとよ」と読ませることで定着しているようですが、作者の栗木京子自身はもとよりそういう読みを意識していたわけではないようす。なれば、どうしてそうなったのであるか…といったあたりを新聞記事では探ったりもしておりましたなあ。ともあれ、結果的にも国語の教科書に採用されほど知られる歌になったのであるとか。
個人的には遥か昔に教科書を卒業しておりますので、全く知らない歌、知らない歌人だったわけでして、それだけに新鮮であったと申しましょうかね。
で、も少し歌集に触れてみるかと思ったときに、先日にもちと引き合いに出しましたNHK連続テレビ小説『舞いあがれ!』の中で詠まれていた短歌が歌集となって出ていることを知ったのですなあ。気付いたときから幾分間が開いてしまいまったものの、やっぱり手にとってみた桑原亮子『トビウオが飛ぶとき 「舞いあがれ!」アンソロジー』なのでありました。
とはいえ、登場人物・梅津貴司(ヒロイン舞の幼馴染でのちの結婚する)がドラマの中で詠んだ歌だけでは、とても一冊にはならんだろうなあと思っておりますと、短歌作りの仲間となった秋月史子、貴司の歌集の編集者であるリュー北條、貴司に作歌を促すこととなった古書店主の八木巌ら、その他の登場人物たちの歌をも収録しているとなれば、「なるほど」と。
ただ、本書を著した桑原亮子という方はそもドラマ『舞いあがれ!』の脚本担当、つまりは脚本家なわけですが、その一方で自ら短歌を詠む人でもあるようで。両者の融合が、話の中で短歌の詠まれるドラマを生んだのであるとして、そのあたり、歌人・俵万智が本書解説でこんなふうに言ってましたなあ。
…振り返ってみて改めて思うのは、桑原さんは紫式部だということだ。『源氏物語』には八〇〇首近い和歌が登場するが、すべてを作者の紫式部が詠んでいる。ダサい姫君にはダサい歌を、イケてる貴公子にはイケてる歌を。桑原さんもまた、貴司の初心のころからの上達具合を調整しておられるように見えるし、子どもたちの短歌も、それぞれの性格が違いがよく出ていて楽しい。
紫式部が引き合いに出されるとは作者本人も「いやあ、それほどでも~」かもしれませんけれど、作文同様に作歌においてもさまざまに個性が出るところを、それらしく歌い分けるのはそれ相応の技量があるということでもありましょうか。およそ詳しくない者に違いは「なんとなく」てなくらいではありますが。
例えば、貴司でない個性による作歌として、貴司の歌集出版の後押しをする編集者・リュー北條の歌を二つほど引いてみましょうかね。
貸金庫みたいだ本は。開くたび預けてあった思い出に会う
高い門乗り越え帰っていく君がもし振り返れば言うはずだった
これに対して、貴司の方の作歌を六つほど。最後のひとつは、以前にも引いたものではありますけれど、取り敢えず。
陽だまりの方へ寝返りうつように昆布は水にひらいていった
支えきれなかった。ごめん。落ちていくバラモン凧の糸の悲しみ
握りしめ一夜を眠る手の中の携帯電話が震えれば朝
助手席の窓つたうとき雨粒は小鳥の歩みのようにふらつく
寝台にきつく押しつけてる方の耳を流れる血の音を聴く
君が行く新たな道を照らすよう千億の星に頼んでおいた
まあ、両者の歌を取り上げた数の違いは本書に掲載される総数の違いといったらいいですかね。で、パッと見の印象ながら、北條と貴司の年代差が感じられる気がするような。なんとなれば、後者が歌うのは現在進行形であって、前者は要するに懐古的といいますか。ただ、北條の方も詠んだ時はまだ若かったかもしれないのですけれどね。
ともあれ、こんなふうに歌の世界に身を寄せてみますと、やはり巻末の解説に俵万智が書いていたひと言が「そうなんだねえ」と思えてくるのでありますよ。
短歌は、日記にたとえられることもあるが、基本的には手紙に似ている。心を言葉に乗せて誰かに届けたいからこそ、人は歌を詠むのではないだろうか。
先に触れられていた『源氏物語』という創作物を思い返すまでもなく、古典の授業で触れた和歌はかなりの比率で誰かしらに送った、いわば恋文のようなものであったとなれば、日記のような心象吐露のようであっても、予め受け止め手が想定されていて、その相手に伝えたいことが表現しているわけですものね。その程度の?短歌リテラシーを今さらながらに気付かされた今日この頃なのでありました。