先日、『パン屋のパンセ』という歌集を読んでみたことをお話したですが、きっかけとなった東京新聞の『一首ものがたり』という不定期連載の先月、6月分にも少々「!」と感じていたりも。そこで、いささかなりとも短歌指向が盛り上がっているところで、そこに紹介されていた歌集もまた手に取ってみることにしたのでありますよ。

 

ただ思い返してみますと、ここでやおら生じた感のある短歌指向は何も『一首ものがたり』によるところばかりではなかったのだなあと、改めて。先ごろ放送されたNHK連続テレビ小説『舞いあがれ!』の総集編を見ていたことが関わっているわけですね。ご存知のように、ヒロイン・岩倉舞の幼馴染である貴司は人生に生きにくさを感じているようなところがありましたですが、歌を詠むことで覚醒していくふうでもありましたし。その貴司が詠んだ歌に、確かこんなのがありましたですね。

君が行く新たな道を照らすよう千億の星に頼んでおいた

気持ちが籠ってるなあと思いましたですね。ただただ伝言のようなひと言ではありますが、七五調のリズムに乗せて軽やかに思いのたけが伝えられる。短歌というフォーマットの妙でもありましょうか。

 

とまあ、そんなこともやおら短歌指向が出来したことにつながるわけですけれど、このほどまた別の歌集を手にとるに至らしめた記事にあった歌はこのような一首でありましたよ。

ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし

作者は岡本真帆、『水上バス浅草行き』という歌集に採録されているということで。

 

 

そもそも俵万智の『サラダ記念日』が出たとき(1987年刊行のようで)に、元より当時の短歌疎遠人間であった者としては「短歌って、こんなに自由でいいのであったか」と思ったのですよね。それまでに接した短歌と言えば、古文の授業で取り上げらた王朝文学のようなものでしたから、そこに垣間見えた等身大といいますか、極めて感覚的に近しく感じる歌の数々に目からウロコが落ちるような気がしたものなのでして。

 

で、何十年もの時を経て、このほど触れた岡本真帆の歌は等身大も等身大ながら、映画に例えて言えば『ブリジット・ジョーンズの日記』を見るような、こう言ってはなんですが「自虐ネタ」と思しきところまで、短歌には織り込めるのであるかと思ったものなのでありますよ。上に引いた一首もそうですけれど、歌集の中にはともすると「痛いなあ…」というものもちらほらと。

この秋にわたしが三人いたとしてそれでも余るほどの秋服
当社比で顔がいい日だ当社比で顔がいい日に限って豪雨
いつの日か殺人犯になったとき使われそうな免許の私
ただいま夢が大変混み合っておりますただしい夢におつかまりください
落ち着いた声のあなたがうれしくて思わず話しかけた留守電

まあ、最後のは痛いというよりもほのぼのさせてくれるかもですね。描かれた二人の間柄がどれほどの親密さであるのか、想像するとバリエーションはありそうで。ちなみに、個人的なところでの近しい感からすると、こんな二首を挙げたくもなります。

まだ何かあるんじゃないかと期待するエンドロールの後の一瞬
5枚目の銀のエンゼルあつめたらぜったい失踪している4枚

上のはコメディ映画などで最後の最後にNGシーン満載だったりしたのを見逃した経験のある方ならば、大いに頷けるところでしょうなあ。下の方は、「ああ、森永のチョコボールねえ」と懐かしく。でも、30代であるらしい作者がこのように詠むのですから、チョコボールのロングセラーぶりと「おもちゃの缶詰のプレゼントは、まだやっていたのであるか…」としみじみしたりも。ま、内容としては、銀のエンゼルを5枚貯めて、おもちゃの缶詰を二度もらった経験がある者にとって「失踪はないだろ」と思うところですが。

 

ところで、この夏の時季に「これよ、これ!」と思う一首がこちらでしょうか。

平日の明るいうちからビール飲む ごらんよビールこれが夏だよ

ビールに親しむ方でないと、ここから伝わる清涼感といいますか、その辺りは受け止めにくいかもですが、夏だ!ビールだ!感が良く出てますですねえ。ただし、出来立ての時のこの歌は下の句が全く異なっていたことが、『一首ものがたり』で紹介されておりましたなあ。最初は「平日の明るいうちからビール飲む 夏の光を教えるように」だったところを、編集者に下の句の再考を促されて、結果誕生したのが「ごらんよビールこれが夏だよ」であったと。ものの見事に化けたものですよね。

 

編集者とのやりとりにしても、作者本人の推敲にしても、短歌というかなり凝縮された言葉の並びが「完成した!」と思える瞬間というのはどういうときなのでしょうねえ。同じことは美術作品の制作や作曲などにも言えるところでしょうけれど、結果としての良し悪し(あるいは好悪)はとやかく言えるところながら、そこに達する以前の葛藤は、読み手が結果だけを見て云々するのとは全く異なって、簡単な世界ではないのでありましょうね。

 

軽やかな歌の集まった(といって、引いてきたのがそういう類いのものばかりでしたけれど)歌集を読みつつ、そんなことにも思いを致したものなのでありましたが、作者が『水上バス浅草行き』というタイトルに込めた思いは、移動手段としては必然でもなんでもない、どうでもいいものということ。ですが、そんあどうでもいいもの、遊び心あるものが、日常に潤いを与えてくれる…とはその通りでありましょうなあ。