またまた東京オペラシティへヴィジュアル・オルガンコンサートを聴きに行ってまいりました。オルガン・ソロが基本線ながら、時折ほかの楽器とデュオが展開されたりしますけれど、今回は声楽との組み合わせ。しかも、ソプラノやテノールでなしにバス歌手おひとりVS.オルガンとは、なかなか意表を突くところではありませんか。
予て声楽はメゾソプラノが好みと表明しておりますけれど、てなことを言いつつもその実、さほど声楽曲(オペラを含む)に詳しいわけでも、聴き込んでいるわけでもありませんから、そのままずばりのバス独唱に接したことなど無かったのですな。ですので、こういっては素人臭さまるだしになりますが、バスの朗誦は決してこてこての?低音域ばかりではなかったのであるなと今さらながら。むしろ、自己紹介でマイクを握ったバス歌手・奥秋大樹の、普通に語る地声の低さにこそ「おお、低音!」と思ってしまったくらいでして(笑)。
でもって、「こんな声ですから、(オペラでは)悪役ばかり…」と言って笑いを誘ったりもしておりましたですが、今回の演奏会はプッチーニのオペラ『トスカ』第1幕最後の「テ・デウム」の場面で締めくくり。さまざまな音を再現できるパイプオルガンを背景に悪役スカルピア(警視総監という役割ですのにね…)が悪だくみを歌い上げて終わったのでありました。
ですが、そもそも低音のバスはなぜに悪役だったり、好色だったり、間抜けだったりする役どころばかりなのでしょうな。反対に高温のテノールは王子様とかもてもて男とか、その類ばかりであることとの対比ではありましょうけれど、どうして高音と低音とで善悪が分かれることになるのであろうかと、これまた今さらながらの思い巡らしを演奏会の最中に…。
まあ、高い声は良く通るということはありますね。単に高いということとは異なりますが、電車の車掌さんがアナウンスする際には決まって鼻声っぽく話すのも、運行の騒音にマスキングされないように(らしい)。それだけよく聴こえるということは、当然悪だくみの話ではないわけで、堂々と身の潔白?を漂わせて声を出しているともいえましょうか。
これに対して低音の方は…となれば、他人や周囲に聴かれたくない話をすることにひそひそ声(つまりはよく通らない声)になりますけれど、そのことを「声を低める」といいますですね。この慣用は必ずしも、発声の高低を言っているわけではないものの、類推が働く余地はある。ひそひそと小さい声、低めた声、内緒話にならざるをえないときの声、こうしたあたりを要するに低音は担うことになってしまったのでもありましょうか。
まあ、オペラのキャスティングの際も、テノールが出てくれば「ああ、かっこいい王子様ね」となり、バスが出てくれば「好色な王様だね」と、ステレオタイプ的に伝わった方が、話はスムーズでしょうから、そんなあたりが伝統化してしまったのかも。
ただ、これはあくまでオペラ絡みの西洋音楽の話ともいえましょうか。以前にも引き合いに出したことのある牧伸二のウクレレ漫談では、バーブ佐竹もフランク永井も「低音の魅力」とされたりもしてますしね。オルガンの重低音にまでは比肩できないとしても、「しびれる低音」はそれなりに魅力を醸すことにもなるわけで、そこらへんの使われ方はあまりオペラではしないのでしょうか…。今やっと思いついたところでは、フォーレの「レクイエム」にある「リベラ・メ」の独唱(これはバスでなくてバリトンのようですが)は「しびれる低音」の部類でもあろうかと思ったりしますが。
…というところでふと気づいてみれば、すっかりオルガンの話がどこへやら。全6曲が演奏されたうち、バス独唱を交えたものが4曲で残り2曲がオルガン・ソロでありましたよ。幕開けのフロール・ペーテルス(20世紀ベルギーの作曲家のようで)の『《めでたし海の星》によるトッカータとフーガ、讃歌』からして、「いやあ、オルガン、鳴らしまくってるなあ」と思いましたが、もう一方のフィリップ・グラス『マッド・ラッシュ』は例によってミニマル・ミュージックですけれど、ピアノかオルガンで演奏されることを想定した曲らしいものの、オルガンとのしっくり度合はなかなかのもの。つい映画『めぐりあう時間たち』のサントラ盤を聴きたくなってしまいました…ということで、これから早速に(笑)。