…ということで、両親を訪ねて晩飯のご相伴に預かってみれば、
「歳のわりに、なんとまあ、健啖家であることよ…」と思わせるほどに
一緒になって飲みかつ食らっておってはこちらがかなわんという具合。
こりゃあ、当面なんらの心配ご無用てな感じでもあろうかと。
ところで、江東区に住まう両親のところへ向かう道すがら江東公会堂に立ち寄って
コンサートをひとつ聴いてから出向いたような次第。
この江東公会堂と申しますのが、成人式の会場として招かれた場所であり、
もそっとさかのぼれば地区の音楽祭みたいなのでステージ上の人ともなった場所。
いちばんよく覚えているのは、小学生のときの器楽合奏で大太鼓を担当したことでしょうか。
かつては単にコンクリートの塊という何の特徴もない上物でしたですが、
今やずいぶんとデザインに凝った明るい建物に立て替えられており、ご時勢だなあと。
ついでに「ティアラこうとう」なんつうホール名を付けてしまったあたりは、
なにやらこそばゆい思いもしないではありませんが…。
まあ、そんなティアラこうとうでのコンサートは、
三ツ橋敬子指揮による東京シティ・フィルの演奏会でありました。
演目は(あまり聴けなさそうな曲にすぐに飛びつく者が喜びそうな)
プッチーニ/弦楽四重奏のための「菊」(弦楽合奏版)
ヴェルディ /弦楽四重奏曲ホ短調(ヘルマン編曲弦楽合奏版)
プッチーニ/グローリア・ミサ というイタリア づくしの3曲。
で、ヴェルディの曲もいいですが、ここではちとプッチーニの方に注目することにして
まず「グローリア・ミサ」ですけれど、プログラム・ノートによりますと
作者がパチーニ音楽院の卒業制作として1880年に作曲したもの。
22歳のときの作品で、プッチーニ本人によれば「若気のいたり」であるとして、
後の演奏も出版も差し止められ、改めて日の目を見たのはプッチーニの没後
27年も経った1951年であったとか。
そうした経緯にもちと左右されている気もしますけれど、印象としては
「ミサ曲」らしからぬ…というところかと。
体裁としては、キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス~ベネディクトゥス、アニュス・デイと続く
いかにもな宗教曲ながら、聴こえてくる音楽は「これ、オペラでないの…」と思えてくるのでして。
元来プッチーニは「北イタリアの古都ルッカに代々続く宗教音楽家の家系」の出であって、
当然にして跡継ぎとして嘱望されていたのでしょうけれど、若い頃からすでにその思いは
オペラに向かっていたということになりましょうか。
聴いていて敬虔さや荘厳さを感じるというよりは、
ドラマティックなオペラのシーンの方が思い浮かべやすいですし、合唱には
ヴェルディ「ナブッコ」の「行け、我が想いよ、金色の翼に乗って」を思い出させるものがあったり、
時折入るテノール独唱、バリトン独唱もオペラティックであるなあと。
また、シティ・フィルの力の入りようでもありましょうか、
「グローリア」や「クレド」のシンフォニックな響きも含めて、
本人による「若気のいたり」との評価はあながち間違っていないなあと思うわけです。
ですが、純然たる宗教曲との思いから離れて耳を傾ける分には栄える曲として面白いですし、
なんといっても後にオペラの大家となる、その萌芽を感じるのもまた楽しからずやでありますよ。
一方で「菊」ですけれど、これまたやはりオペラを思わせるものの、
それ以上に後のイタリア映画の音楽に通ずるところを感じましたですね。
イタリアというと陽光さんさんで人々も陽気で…てなふうに思ってしまうところながら、
そこに見え隠れして独特のリリシズム、メランコリーといったものが横溢している。
そのあたりを聴覚に訴えるとこうなる…みたいな曲といいますか。
考えてみれば、プッチーニがたくさん作り出した劇音楽とは、
その後の映画音楽と切り離して考えられるものでないとすれば、
通ずるところありと考えるのも、これまたあながち的外れでもないのかなと。
そんなふうに、プッチーニの音楽からイタリア音楽の近代への流れを
考えたりする演奏会となったのでありました。


