東京・三鷹の国立天文台を訪ねて、見学コース内に設けられた「太陽系ウォーク」という一本道をたどりますと、その先で行き当たるのは「大赤道儀室」という建物で、先に見た「第一赤道儀室」とは「太陽系ウォーク」を挟んで真向いの位置に建てられておりました。こちらもまた国登録有形文化財となっているようで。

 

 

1926年(大正15年)建設ながら、今も三鷹キャンパス内では一番大きなドームがこちらであるとか。近頃の天文台として思い浮かべるドームは巨大化の一途をたどっているでしょうから、三鷹の役割はドーム天井から望遠鏡を覗かせて、空を、宇宙を観察・観測するという形でないところのいあるということでしょうかね。

 

ということで、中には「1998年3月に研究観測から引退し」たという65cm屈折望遠鏡(このタイプの望遠鏡としては日本最大の口径とか)が据えられているわけですが、今や建物の看板には「天文台歴史館」とありました。下の観音開きから入って2階から階段を下りて出てくるという順路をたどってみることに。

 

 

1階部分は階上に望遠鏡を据えた床部分を上下動させるための巨大なジャッキのようなものが真ん中に置かれ、その周囲の壁面を天文関係の「映える」写真パネルが飾っておりましたよ。例えば、このような。

 

 

 

上は三鷹ではなくして岡山県の観測所で、下の方は先に見た第一赤道儀室ですが、ドームが開くとやはり気分的には盛り上がるような。

 

 

そんな写真パネルに囲まれた片隅には、昔々の理科室で見かけたような…というにはかなり大型の機械・器具が置かれて(展示、ですよね)ありましたが、その片隅には(天文台歴史館というにふさわしく)「明治期最古の望遠鏡」が展示されておりましたですよ。

 

 

1875年製造の英国製で、「経緯儀と呼ばれ、天体の高度と方位を精密に観測し緯度経度を測定する特殊な望遠鏡」だということで。おそらくは「明治政府の内務省地理局が東京大学天象台、海軍観象台と一緒に東京天文台となった際(1888年)、東京天文台に移管されたもの」であろうと。てなところで2階にあがりまして、「天文台歴史館」たる歴史にまつわる展示へと足を進めてみるとしましょう。

 

 

歴史をたどると申しましても、階段を上ってまず目にとまるのはこの65cm屈折望遠鏡ですなあ。1929年製となりますと、先ほど触れた「明治期最古の望遠鏡から50年余り時が経過して、望遠鏡はかくも大きくなったものであるかと。飛行機などもそうですが、科学技術は加速度的に進展していくことがままありますなあ。

 

 

さてと歴史のお話になりますですが、日本における天体観測のそもそもは「江戸時代後期、幕府天文方の浅草天文台から」ということに。後に詳細な日本地図を作り上げた伊能忠敬も深川から浅草まで通ったのでありましょう。

 

近代的なものとしては、1888年(明治21年)に東京天文台が港区麻布につくられたそうな。これが後に東大や海軍の天文台と合わさって国立天文台となっていくわけですが、当時の麻布でも街の灯りが天体観測には不都合になってきて移転が計画されていたとか(麻布には狸穴なんつう地名もありますけどねえ…)。もっとも実際には関東大震災がきっかけとなって、三鷹移転となったようですね。

 

ただ、「初期の天文台の主な仕事は、星を観測して、経緯度の決定や、暦の計算、時間の決定を行うことだった」といいますから、江戸時代の『天地明察』の頃から相も変わらず…てなふうに思ってしまいますが、もっとも「これらの仕事は…今の天文台の仕事の一部として行われている」とは、お江戸と同じと聞いてただただ古くさく感じるのは間違いの元ということですな。

 

ところで、東大、海軍の施設と合わさって組織の大きくなった東京天文台は「後に国立天文台に」と言いましたですが、国立天文台となったのは実はさほど古い話では無かったのですなあ。1988年のことだそうです。

 

 

別の一角には、天体と宇宙に関する「観測と発見の歴史」を紹介する展示パネルもありまして、これと辿るのもまた興味深いところながら、長くなってきましたのでこの辺にしとこうかと思います。どうぞご容赦を。