スパリゾートハワイアンズの中に(ひっそりと?)併設された「フラ・ミュージアム」を覗いて、レジャー施設誕生以前の常磐炭礦のようすを見て来たわけですが、閉山が既定路線となる中で、採炭にはじゃまものでしかなかった温泉水を利用した娯楽施設を作るという壮大な計画が持ち上がった…という先のお話になります。

 

炭鉱が完全に閉山される前からすでに、やかて鉱山としては解雇せざるを得ない従業員の雇用創出も意図して、昭和39年(1964年)に常磐湯本温泉観光株式会社が設立されるのですな。社長となった中村豊は映画『フラガール』で岸部一徳が演じた人物ですけれど、その意気込みのほどはこうした言葉から偲ぶことができましょうか。

「常磐炭礦の社宅が六千戸あり、あらゆる年齢層の家族が住んでいる。この家族を結集し、新しい力を開発してこそ、ハワイアンセンターを守り育てる意義がある。」

また、このような言葉も。

「君たちは二度と常磐炭礦へ戻れると考えてはいけない。ハワイアンセンターは君たちの永久の職場なのだ。背水の陣を布いた覚悟で努力してもらいたい。私もまた君たちの将来の安定を焼く阻止し、そのための努力を惜しまない。」

しかしまあ、なんだって目の付け所が「ハワイ」であったのか。戦後の日本で海外渡航が自由化されるのは昭和39年のことで、まさに常磐ハワイアンセンター開業の年ですので、行こうと思えば本当のハワイに行けないではない…。としても、当時の海外渡航は今とは比べものにならないほどに敷居も費用も高いものであったでしょうから、庶民にとっては相も変わらず夢のまた夢だったのですよね。そも、巷では常夏の楽園ハワイへの憧れを掻き立てるような映画が公開されたり、『あこがれのハワイ航路』てな流行歌があったり。

 

 

折しも、「10問正解して、さあ、ハワイに行きましょう!」とハワイ旅行ご招待を賞品にしたTV番組『アップダウンクイズ』の放送開始が昭和38年であったとなりますと、「なぜハワイ?」と問うまでもない感覚が当時はあったのかもしれませんですね。

 

さりながら実際には行けないとして、その代わりに常磐ハワイアンセンターに来てくれるのか。地元の人たちは何とも冷やかなつぶやきを交わしていたようで。曰く「ハワイアンセンターは二年でつぶれる」だの、「見たこともないフラダンスやタヒチアンダンスで客を呼べるとは思わない」だのと。

 

目玉のひとつとされたダンスショーに関して、当初のごたごたは映画『フラガール』に描かれているわけですが、開業に先立つ9カ月ほど前、常磐音楽舞踊学院を立ち上げるということに。

 

 

映画ほどぐだぐだではなかったかもですが、それにしても促成栽培の感はあろうかと。それでも、社長の中村は意気軒高なのですなあ。

「松竹や宝塚のショーを真似ようと思うな。少女歌劇やレビューを見たい人は東京か神戸に行けばいい。ハワイアンセンターは、ここでしか見られないショーを上演する」

この意気込みに必死で食らいついたダンサーたち、開業を目前にした昭和40年12月に東京でお披露目公演を行い、大盛況を博したのであったそうな。それでも、昭和41年の開業からしばらくは、当時の有名芸能人などを呼んできて、フラとは別にショーを行って客寄せに努めたようではありますが。

 

 

月ごとに一枚のチラシで、ゲスト芸能人の告知をしていたようでして、その中の一枚はこんな具合です。

 

 

黛ジュン、鶴岡雅義と東京ロマンチカ、矢吹健、バーブ佐竹、ヒデとロザンナ、そして春日八郎…とは、いやはやなんとも豪華な(?)ラインナップではありませんか(笑)。ショーの入場料が400円とありますので、「千円持ってハワイに行こう!」というキャッチフレーズも伊達ではないといいましょうか。

 

 

その後もプール施設や温浴施設の設備改修などを繰り返し、リピーター確保と新規顧客の開拓に励んだようですな。さりながら、昭和48年(1973年)のオイルショック時には燃料費を圧縮せざるを得なくなくなった結果、「ハワイアンセンター」ならぬ「アラスカセンター」と呼ばれることにもなったとか。それでも、当社は「二年でつぶれる」と周囲でささやかれたことを覆し、すでに半世紀を超えて(それこそ本物のハワイが夢の夢という存在でなくなった今も)親しまれているのですなあ。

 

 

個人的にはしっくりくる「常磐ハワイアンセンター」が、現在の「スパリゾートハワイアンズ」となったのは1990年3月のことであったそうな。常磐自動車道の開通を追い風にすべく、温泉テーマパークへの進化を図ることになったのであると。それでも、この沿革展示の締めくくりの言葉は、「スパリゾートハワイアンズは、温泉テーマパークとしてこれからも日本人にとってのハワイであり続けます」というものでありましたよ。

 

幼少期を東京の下町で過ごした者としては、本物のハワイどころか常磐ハワイアンセンターでさえ遠い存在で、代替として(というわけでもありませんが)もっぱら船橋ヘルスセンターに連れて行ってもらっていたわけですが、その船橋ヘルスセンターも当の昔(1977年)に閉館してしまったからには、なんとはなしハワイアンセンターにはこの後も頑張ってもらいたいものだと思ったりもしておるのでありますよ。