先に見た『ある天文学者の恋文』の話をした折、お門違いであるとはともかくもフェルメール作品の「天文学者」を思い出したところで、今度はこんな映画を見てみたのでありますよ。

 

 

オランダ映画(実際にはベネルクス三国の合作のようですが)の『ナチスを愛したフェルメール』と言う一作ですが、上のようなDVDカバーからすると『愛の嵐』のシャーロット・ランプリング(若かりし頃…)が浮かんできてしまったりもするところながら、話としてはひたすらに、フェルメールの贋作者として有名なハン・ファン・メーヘレンを描いたものであって、ナチスとの関わりもほんの少々出てくるばかり。

 

その点で、この邦題に対する疑義と言いますか、さまざまにレビューで言及されていますですなあ。オランダ語の原題は「een echte vermeer」、英語にすれば「a real vermeer」となるようですが、これに「a real vermeer?」と疑問符を付けたならもっともしっくりくるタイトルだったのではと、見終えて思うところです。やはり邦題はあまりうまい名付けではありませんですね。また、タイトルもさりながら、宣伝用に使われた画像の選択も映画の中身を伝えるにどうよ?てな感じも。実際、オリジナルと思しきポスターはこんな感じですし。

 

 

とにもかくにもメーヘレンが主人公なのですから全く登場させないという手はない。確かにどちらにも映っている女性がメーヘレンのミューズでもあり、その運命を左右するファム・ファタルでもあるにせよです。メーヘレンがフェルメールの贋作に手を染めるのは自らの才を認めようとしない美術界の権威に対する復讐心であって、その権威の体現者である美術評論家の妻が二つの画像に見えている女性であったとなりますと、なかなかに心のうちがややこしいことになりましょうかねえ。

 

ともあれ、メーヘレンはフェルメールの贋作を「本物」として認めさせることに成功する。かの評論家氏も太鼓判を押して、ロッテルダムのボイマンス美術館が大金を投じて所蔵することになるのですな。さらに大戦中にはナチの大物、ゲーリングにまでフェルメールを売り捌いたとして、戦後に国家反逆罪の裁判に掛けられるメーヘレンですが、事ここに至っても肝心の作品がフェルメールの真作と信じられていることにほくそ笑みつつも、国家反逆罪として訴追されるままに(つまりは真作であることにしたままで)死刑を宣告されるか、はたまた「描いたのは自分」と白状して贋作者の汚名を着るのか、運命の分かれ道に立たされるのでありましたよ。

 

結局のところメーヘレンが自作であると告げますと、それまで国の至宝をナチに売り渡した極悪人の立場から、まんまとゲーリングに一杯食わせたヒーローへと天地返しの評価となるのですが、贋作者として詐欺罪とはされ、禁固一年の刑を受けることに。もっとも、判決後ひと月ほどでメーヘレンは獄死してしまうのですな。最後の日々、彼の心中に去来したのはどんな思いであったでしょうねえ。

 

映画ではその終わりにあたって、ポストモダンのご時世になってメーヘレンの作品は傑作と見られ、ボイマンス美術館では(フェルメール作と偽った)彼の代表作「エマオの晩餐」(「エマオの食事」とも)が今も飾られていることが伝えられます。こうしたあたりまで含めて考えますと、「贋作」とは?てな思い巡らしもしてしまうところではなかろうかと。

 

既製品の小便器をただ置いて「泉」と名付けた作品にしてしまったデュシャンや、ひたすらにキャンベルのスープ缶をそっくりそのまま書き写したウォーホルと言ったアーティストがいる一方で、まるっきりフェルメールが描いたように見える新作を作品として描き出したメーヘレンには(ポストモダンのご時世的見地からして)創造性が無いと言ってしまえるのかどうか…。もっともその作品をフェルメール作品として売り捌くという行為自体は詐欺以外の何物でもないわけですが、それがもはやメーヘレンの自作であるとなった場合に、その作品の評価は…と。

 

ただ、素人目の個人的見解としては、メーヘレンの描いたものがフェルメール作品とは思えないのですけれどね(笑)。それに対して、専門家があっさりと騙されてしまったのは、映画でも触れられているように「エマオの晩餐」がカラヴァッジョの影響をフェルメールにつなぐ「ミッシングリンク」として見てしまったからでありましょう。訳知りなればこその落とし穴というべきか。意外に素人判断もばかにならないものだろうと思ったりするところなのでありましたよ。