武蔵の市立吉祥寺美術館を訪ねて萩原英雄の『三十六富士』を見てきたわけですけれど、これは同館コレクションの蔵出し作品による常設展示スペースのお話でありまして、どうせ出かけたのであればやはり企画展も覗いてしまうのは必定かと。何せこの美術館、入場料が安いのですよね。

 

常設展だけなら100円、企画展込みでも300円で見られてしまうという。もちろん、企画展は内容次第で金額設定は変わるのでもありましょうけれど、ともあれ今回開催中(~3/5)であったのは「相馬博 悠久と星霜の彼方」展というものなのでありました。

 

 

吉祥寺美術館では武蔵野市ゆかりある作家の展示が多いのですけれど、本展の作者もまた武蔵野市在住であると。「繊細な色のグラデーションで生命のきらめきや儚さを表現する現代美術家」ということで、作品からは宇宙の深遠なる印象が漂っておりましたよ。作者が太っ腹なのか、展示会場は写真撮影が可(一般に常設展だけは撮影可という美術館はままありますが、ここでは逆で…)とのことで、こんなふうに作品が並んでおりましたなあ(ちなみに、写真をSNSで扱うには#相馬博とか#吉祥寺美術館とかを付ける必要があるようすので、その辺は指示に従っております)。

 

 

宇宙の深遠を感じるとは言いましたですが、ざっくり言えば「空の光をモチーフとした抽象画」ということになるようで。具象画に始まって、現在にたどり着いたバックグラウンドを作家は本人は、こんなふうに語っているようですなあ。

「東京に生まれ育った自分にとって、目に映る風景とは真上に見える青空や雲、太陽、月、夜空の星々だった」

そうであるか、夜空の星々がモチーフだったのですな。特にフライヤーにも使われていたりする《悠久の星霜の彼方》シリーズ(そういえば展覧会タイトルでもありました)などは「なるほどな」という作品でもありますねえ。

 

 

ただ、ちょと待てよ!と思ってしまいましたのは、東京に生まれ育ったという作者、昼につけ夜につけ、見上げた空が目に見える風景であった…というのは、感覚の違いでありましょうかね。子どもの頃の東京の空は、昼なれば「光化学スモッグ注意報発令中!」てなことしばしのうすぼんやりしたものでしたし、夜ともなれば星などいったいどこにあるの?と。いくらか空気の澄んだ冬の夜にオリオン座(明るいですものね)が見えるくらいであったような。そんな空を見上げた風景に感心を寄せたのであったか…と思ってしまったわけです。

 

まあ、作者とは10歳以上も年齢の開きがありますので、公害垂れ流しの東京の空も幾分ましになってきていたのかもしれませんですが、感覚としては遥かに年代の異なるものの、「東京には空が無い」と言った智恵子(抄)の言葉の方が親和性があるように気がしたりもしたのでありますよ。

 

と、またまた余談はともかくとして、上の会場の写真に見えておりますとおり、星降るような《悠久の星霜の彼方》シリーズ以前には「輪」をフィーチャーしたシリーズが展開されていたようですな。「輪」という幾何学模様が描きこまれますと、それだけで抽象画領域と思うところでもありますが、そうした記号性を排してなおかつ(星降る夜とも思しき具象のようでありながら)絶対的に抽象であるというのは確かに到達点ではありましょうか。

 

 

さりながら、先にも触れた宇宙の深遠はむしろ「輪」が描き込まれた方にこそ感じるというのも、妙なものと言いましょうか。そこには「輪」という記号の持つイメージも関係しておりましょうね、きっと。

 

 

閉じた「輪」には永遠の循環性が窺えますし、真ん中に穿たれた穴(それが「円」とはまた異なって)は底知れぬ深遠を覗き見るような印象もあろうかと思うところですし。上の作品は、それでも銀河のようなものが描き込まれることで宇宙らしさを醸す(説明する?)ことになってしまっていますけれど、これがひたすら「輪」に特化した画像となりますと、抽象化された深遠のありようそのものという印象にもなってくるのですなあ。

 

 

まあ、作品で作者の思いの変遷をたどるならば方向性は逆ということになりましょうけれど、むしろこちらの方が抽象画のありようでもあろうかと思ったものなのでありますよ。見ているうちに「輪」からの連想でもありましょうけれど、宮本武蔵の『五輪の書』というタイトルが浮かんで来ました。剣術の奥義を伝えるに(仏教からの借用とはいえ)「輪」が使われていることに、深遠なる世界として通じ合うところがあるように思ったものです。もっともオリンピックの五輪に「深遠なるもの」は感じませんけれどね(笑)。